◆ 仮面舞踏会第二夜 ◆
Masquerade Vol.2




『outsider』

著者:タカハラ マナ




 それではルールを説明します。
 
 今からあなた方に問題を出します。問題は参加者それぞれ出題内容が異なりますが、自分の答えが分かっても、他の人に教えてはいけません。万が一教えた場合は、全員不正解となります。
 解答権利は一人につき一度だけとします。問題に正解であった場合は、解放されますが、不正解であった場合は、二度とここから出られません。よく考えて解答してください。
 問題については、他の参加者の方々と相談されても結構ですが、自分の出題された問題内容を、他の回答者に知られてはいけません。知られた回答者は、その場で失格となり、逆にその人物の出題内容が分かった参加者は、解答権利の回数が増えます。
 尚、解答する際には、扉横のスイッチを押してください。
 更に、6時間毎に一つだけ質問を受け付けます。ただし、中にはお答えできない質問もありますので、慎重に質問してください。タイムリミットは24時間です。よって質問数は全部で4回となります。

 そしてあなた方は現在、互いに隣り合って手錠で繋がれています。更に、それぞれ互いの小指に赤いガムテープを巻きつけて固定しており、更にその上からピアノ線が巻きつけられています。どちらかが暴れたりそれを解こうともがくと、互いの小指が根元から切断される仕組みになっています。部屋の中を歩き回って頂いても結構ですが、移動する際には両隣の人の了承を得て、同時に移動することをお勧めします。
  
 
 それでは、健闘を祈ります。





 問題:犯人は誰か?















 目を開くと、暗闇だった。瞬きを何度繰り返しても暗闇。そこでようやく、自分が目隠しをされている事実に気づいた。その視界を奪うものを除けようと右手を動かした時に、手首と小指に違和感を感じた。そうだ。手錠とピアノ線。繋がれているのだった。ルールをぼんやり思い出し、人見は舌打ちした。
 隣人とは距離があるらしい。てっきりそう何センチも離れていないかと思ったのだが、腕が90度に近い位置に持ち上がっていることからしても、軽く一メートルは離れているだろう。椅子に座らされているとはいえ、24時間腕を上げっ放しのこの状態は堪える。
「…おい」
 右隣から低い声がした。思わずそちらに顔を向ける。視界が奪われているので、顔を向けても意味がないのだが、反射で向けてしまった。
「引っ張るなよ。痛い」
「…悪い」
 素直に謝ると、右隣の男が溜息を吐いたようだった。
「お前、目隠しされてるんだな」
 その男の言葉に、人見は耳を疑った。
「あんたはされてないのか」
「ああ。そっちの男もだけど」
 右隣の男が示したのは、人見の左側で繋がれている男のことのようだった。人見は視界の利かない顔を向けてみたが、左隣は静まり返っていた。
「…静かだな。寝てるのか?」
 人見の質問に、右隣の男が薄く笑ったようだった。
「そっちの奴は口を利けなくされている」
 人見は思わず息を呑んだ。
 口を利けなくされているとはどういう状況なのか。マスクをされていても、くぐもった声くらいは出せるだろう。しかし、左隣からは何も聞こえない。全く声を出すことが出来ない状況なんて、一体どうしたら……
「オレはヘッドフォンをつけられていたんだが、頭を振ったらなんとか取れた。…あんたのアイマスクは…取れそうにないな」
「…頼む、手伝ってくれないか?右手を…いや、あんたの場合左手か。こっちに寄せてくれないか?これを外したいんだ。見えないのは不便で仕方ない」
 人見の頼みに、男は首を横に振ったようだった。諦めの滲んだ声で続ける。
「残念だが無理だ。オレの右手は、壁のパイプに手錠で繋がれている。これ以上そっちへ動くことができない。これでも限界までそっちに寄ってるんだぜ」
 人見は驚いて声を上げた。
「あんたの右手は、手錠だけなのか?ということは、あんたは一番端にいるということか?」
「そうなるな。というか、この部屋にいるのはオレたち3人だけだ。あんたを中心に繋がれている状態。これじゃあ、部屋を動き回れったって動けないな。左端の男の左手も、向こう側の壁のパイプに繋がれている。…これでどうやって扉の隣のスイッチを押すんだか…」
「スイッチはここから遠いのか?足を伸ばしても無理か?」
「…ここからなら3メートルから4メートルの距離だ。でもスイッチはオレらの顔の位置の辺りの高さにあるから、かなり上の方にある。上手く靴投げて当てりゃいける距離かもしれないが、それでもチャンスは右足左足使って一人2回だな。あ、オレは振り落としたヘッドフォンあるから3回か」
 冷静な右隣の男の説明に、人見は少し迷ったが、頼んでみることにした。
「あんたの名前を教えてくれないか。俺は人見という。できれば、この部屋の状況をもう少し詳しく聞かせて欲しい」
 暗闇の中、人見は右隣の男に向かって頭を下げた。ぐっと、左手を少し引っ張ってしまったが、左隣の男は何も言ってこなかった。
 少しの沈黙の後、右隣の男が小さく笑ったようだった。
「……あんた、警戒心なさすぎじゃない?何も分からない相手に頼みごとして…名前まで言っちゃって…あ、偽名か」
「本名だ」
 相手に信用されるには、まず自分をさらけ出さねばならない。そのことを心得ていた人見は、敢えて本名を名乗った。
 右隣の男が大きく息を吐いた。諦めに近い感じが伝わってきた。
「――オレは菊池だ。あんたの馬鹿正直さ加減に免じて、説明してやる」



「オレたちが繋がれているのは暗い倉庫みたいな部屋だ。広さはさっき説明した通り。男3人が腕広げて繋がれるには充分な距離があって、オレたちの繋がれてる正面の壁に出入り口が一つ。重そうな鉄製の扉で、右側に取っ手が一つ。鍵穴が取っ手を挟んで上下にあるが、こちらから開けられるタイプじゃない。外から鍵を差し込んで開くタイプのやつだな。その扉の右横に、例の解答用スイッチらしきものがくっついてる。その真上に、電気のスイッチがある。一応部屋は電気がついているが、いつ切れてもおかしくないくらいチカチカ点滅している。
 後、そのドアに向かい合う形でオレたちが壁に沿って椅子に座って繋がれている。扉から見て右端から、口の利けない男、あんた…人見さんか、オレの順番だ。左の男の左手は、壁際のパイプに手錠で繋がれていて、逆サイドのオレも然り。人見さんはオレらの真ん中で、それぞれ手首と小指を拘束されている。つまり、オレと左端の男は片方で済むのに対し、あんただけ、両手の小指を失う可能性があるわけだ」
「……他には何もないのか?机や、家具らしきものは…」
「ないな。家具は座らされてる椅子だけだ」
 淡々とした菊池の説明に、人見は大きく息を吐いた。
 何故だ。何のためにこんなことを…
「左隣の男はどんな様子だ?何か特徴はあるか?俺の知り合いかもしれない」
 様子を窺っているのだろう。少ししてから、菊池が答えた。
「……知らないみたいだ。首を横に振ってる。見た目、40過ぎくらいのおっさんだ。スーツを着て、眼鏡を掛けてる。鼻の右側に大きな黒子がある」
 知らない…多分知らない男だ。
 人見は、聞かない方がいいだろうと思ったが、敢えて聞いてみた。どんな情報でも、今の自分には重要で必要だった。
「…その人は……なんで口が利けないんだ…?」
 菊池も聞かれると覚悟していたのだろう。
 淡々と答えた。
「口が縫われてる」



「ここ、一体どこなんだろうな…どこかの工場かな?さっきあんたが起きる前、なんかガンガン大きい音響いてたし…」
 重苦しい空気を換えようと思ったのか、菊池がさっきより少し大きい声で言った。
「大体、なんでオレがこんな目に遭うんだよ…。人見さん、あんた心当たりないのか?こんな変なゲームに参加させられるような」
 人見は弱弱しく首を横に振った。
「……ない。そっちは」
「ないよ。つーか未成年捕まえてどうしようってのかねぇ。コレ、監禁罪とかになるんじゃねえの?」
 人見は暗闇の中で目を見開いた。顔を菊池の方へ向ける。
「あんた、未成年なのか?」
「…そうだけど…。なんだよ、その驚いたような声は」
「てっきり年上かと思った」
「悪かったな。喋り方が老けてて」
「いや、落ち着いてると思ったんだ」
 そうかい、と信用していない声で菊池が口を閉ざした。
 菊池が口を閉ざした途端、その部屋は本当に暗闇に放り込まれた気がした。視力を奪われている今の人見にとって、菊池の言葉だけが唯一の情報源だった。
「あんたは、どうやってここまで来たんだ?」
 人見の質問に、菊池はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「……ノーコメント」
「なんでだ?」
「人見さん、あんたルール忘れたのか?自分の出題内容は相手に知られちゃいけないんだぜ?端っこのおっさんは口が利けないから一番有利なんだ。自分の情報を抱えることが出来る上に、オレたちの会話も盗み聞ける。あんたはオレと会話するとき、自分の出題内容に触れられないように話すべきなんだ。それ、覚えてる?」
「覚えてるさ。でも、俺たちは結局今のところ解答スイッチを押す手立てが限られている。アレを押さない限り、例え出題内容がバレても、あんたがそれを出題者に伝える手段がない」
 人見がそう答えると、菊池が低く笑った。何故だか少し楽しそうな気配が漂ってきた。…こんな状況で楽しい?そんな馬鹿な。人見は頭を振って、菊池の低い笑い声を消し去ろうとした。
「…言い忘れてたけどね、人見さん。オレらの監禁されてる部屋の天井の隅には、それぞれ角に4台の隠しカメラがくっついてる。犯人はアレでオレらを監視して楽しんでるんだよ。イイ趣味だよな。きっと音声も拾ってるぜ。これだけ厳重なんだもんな。オレたちが、スイッチが押せないって分かって苦しんでるの見て笑ってんだよ。マジ悪趣味だよ。だから心配することないさ。解答が分かれば挙手なり正解叫ぶなりすればいい。嫌でも扉を開けてくれるさ。スイッチなんか最初から必要ねえんだよ。オレらを惑わせるただのオモチャだ」
 菊池の楽しげな解説に、人見は肺に溜まった空気を大きく吐き出した。
「……予想していた」
「――は?」
 人見の言葉に、にやにや笑っていたらしい菊池が、一音で返した。
「監視カメラの存在は予想できる範囲だ。左端の男性は口が利けない。ということは彼は情報を得ることができても、一人だけ解答するチャンスが与えられないことになる。と言うことは、彼は声を出さずとも答えられる質問を与えられていることとなる。つまりジェスチャーだ。それを犯人が判断するためには、この部屋に監視カメラを設置するしかなくなる」
 菊池が無言だったので、人見は構わず続けた。
「それより疑問なのは、菊池、あんたの方だよ。なんでカメラの存在を黙ってた?」
 菊池がぽつりと言った。
「……何でもかんでも話しちまったら、オレが不利になるだろ…。あんた分かってんのか?オレたちこうして悲惨な目に遭ってるけど、仲間じゃねえんだぞ?ライバルなんだぞ?この部屋で繋がれてる以上、出題者に質問する時にどうしてもあんたらの耳に入るんだ。その度解答に近づく。そしたらその分だけ、あんたらにもオレの出題内容のヒントを与えることになってしまうんだ。何でも容易にぺらぺら話せるかよ」
「…分かった。じゃあ約束する。俺は菊池の出題内容が分かっても、口外しない」
「……は?」
「だから全部正直に話せ。他に隠してることはないか?」
 菊池の呆れた声が聞こえた。脱力したような、疲れ切った声だった。
「あんた本気か?自分追い込んでどうするんだよ?たった一度の解答権利で正解当てる気か?」
「どうせ君ら二人の出題内容が分かったところで、解答権利は最大3回だ」
「そうだけど…1回と3回じゃ結構でかいぞ?」
「正直俺は、あんたが失格になると困る。俺は視界が利かない以上、あんたからしか情報をもらえないんだ。だから、俺はあんたを売ったりしたくてもできないんだ。安心しろ」
 人見の解説に、菊池は閉口したようだった。
 しばらくして、大きく溜息を吐く気配がした。
「……分かった。一番有利なのはおっさんじゃねえ。オレって訳か」


「そんなことはない」
 人見の静かな意見に、菊池が顔を上げた。アイマスクにより視界を奪われている人見を見つめる。彼は視力を奪われているはずなのに、まるでこちらをじっと射竦めるような雰囲気を醸し出していた。こんな理不尽なゲームに参加させられて、自由を奪われているというのに、思いの外冷静なように菊池には思えた。
「…どういうこと?だってオレは唯一この中で目も見えるし口も利けるんだぜ?一番情報を活用できるのは、どう考えたってオレだろう」
「一番情報を持ってるから、危険なんだよ。あんたは俺たちに情報を提供する役目を負わされてるんだから」
「……なんだって?」
 菊池の声がワントーン落ちた。それをすかさず感じ取った人見だったが、構わず続けた。
「あんたのヘッドフォンだよ。もし監視カメラで犯人がこの状況を把握しているんだったら、そのヘッドフォンをすぐにでも取りつけに来るはずだろう。でも、未だにあんたの聴覚は自由なままだ。それをしないということは、菊池の耳が使えても、犯人にとっては何ら不自由しないということになる」
「…ヘッドフォン取り付けに来たら犯人の顔がバレるから、来ないんだろ」
「マスクを被るなり部屋の電気を消すなり、顔をバラさずに済む方法なんていくらでもある。それでも来ないということは、君が情報を得たくらいじゃあ、犯人にとって脅威でも何でもないということになる。もしくは――」
 菊池が口を挟まなかったので、人見は続けた。
「あんたが犯人の仲間ってことになる」



 その瞬間、人見の左手が引っ張られた。強い力ではないが、手首が引かれる。小指の根元に締め付けられるような鋭い痛みが走った。今までぴくりともしなかった左側の反応に、人見は暗闇の中で目を見開いた。
 左側の、口の利けない男が動いているのだ。
 何故突然――
 同時に自分が菊池に向けて放った言葉を思い出す。
『彼は声を出さずとも答えられる質問を与えられていることとなる』
 それだ。
 口の利けない男は、自分の答えが分かったのだ。だから、それを伝えようと、ジェスチャーで示すために暴れているのだ。今まで死んだように静かだったのに、突然暴れ出した男。自分たちの会話の中でヒントを得たに違いない。
 男は手錠を外そうともがいているらしい。人見の左手の小指がどんどん締め付けられるのが分かった。きりきりと痛む。既に指先には血が通っていないことが分かった。感覚が全く無い。このまま暴れ続けられれば、小指が切断されてしまう。
 人見はゆっくりとルールを反芻した。
 痛みを堪えながら、声を張り上げた。


「左隣の男の質問内容が分かった!」


 人見の声に、左隣の男の動きが止まった。小指は痺れて感覚が戻らなかった。
「お、おい……」
 菊池の小さい声がした。何かを咎めるような。同時に、ガシャンガシャンと連続して、金属の擦れ合う音が響く。
「なんだ?何の音だ?」
「ひ、左の男が暴れてる…」
 菊池の戸惑ったような声と同時に、部屋中に機械を通した声が聞こえた。


 ―――回答を許可します。質問内容をお答えください。


 機械的なアナウンスが、部屋中に響く。やはり監視されていたのかと、人見は確信を得た。

「共犯者はどちらか」


 ―――正解。Bの解答権利が2回に増えました。同時にAを失格とします。


 アナウンスが途絶えた途端、バチンっという大きな音が響いた。菊池が、叫ぶのが聞こえた。
「なんだ?何が起きてるんだ?!」
「で、電気が消えた!真っ暗だ、何も見えない!」
 先程とは打って変わって、落ち着きの無い弱気な菊池の声が響いた。その時、重い鉄製の扉の開く音がした。思わず息を呑む。コツコツと硬質な音が近づいてくる。息を殺してじっとしていると、何か温かいものが左手に触れ、人見はぎくりと体を強張らせた。
 誰かが、自分の左手首を捕らえている。
 犯人、だろうか?
 そう考えた瞬間、全身が心臓になったかのように脈が速く打つのが分かった。
 すぐそこに、自分をこんな目に遭わせている犯人がいる――
 恐怖で竦みそうになる体を励まし、人見は顔を上げた。
「……あんたは……」
 言い切る前に、ぎりっと手首に何かが絡んだ。細い糸?ピアノ線だろうか?きつく絡み付いて締め付けられる。それを、今度は自分の座らされている椅子の背もたれ部分に固定されてしまった。左隣の男とは既に手錠もガムテープも、小指の拘束も解かれていた。しかし、今度は手首。暴れれば、手首ごと切断されてしまうことになる。
「なんで…」
 解答権利が増える分、自分に課される拘束が増えるということか?
 カチャンと手錠の外される音が響いた。左の奥からだ。左端の男が失格となったためだろう。
「ま、待て!どこに連れていく気だ?その人はもう失格なんだろ?ちゃんと家に帰すんだろう?」
 人見の声に、返事はなかった。しばらくして、再び鉄製の扉が開けられて閉められる音が響いた。


 しばらくして、またバチンという大きな音が響いた。菊池の安堵したような声が聞こえてきた。
「…電気が点いた…」
「左の男は…?」
 人見の質問に、菊池がぽつりと答えた。
「…いない」
 その明快な答えに、人見は俯いた。
 ルールによれば、出題内容を知られた回答者は失格となる。問題に不正解だった場合はここから出られないはずだが、出題内容を知られた者に関しては、「失格」だとしか言われていない。そのことを考慮して、人見は左の男の出題内容を答えた。
 だが、左の男の場合、正解は自分か菊池を選ぶ二択となっていた。タイムリミットは24時間、冷静に自分たちの会話を聞いていれば、導き出せたかもしれない。しかし、彼は暴れた。自分か菊池のどちらかを選ぶだけなら、自分と繋がれている右手で示すよりも、パイプと手錠で繋がれている比較的自由な左手で示すことは可能だったはずだ。それにも関わらず、彼は暴れた。ということは、彼はジェスチャーでの解答を認めてもらえなかったということになる。つまり、やはり解答スイッチを押さなければならないというルールは生きているのだ。
「無理だ……」
 この距離からスイッチを押すのは至難の業だ。全く公正なルールではない。一体何が目的なんだ。


「あんたさ…」
 人見の思考を遮るように、菊池の低い声が届いた。
「なんだ?」
「おっさん売っていいの?」
「…どういう意味だ?」
 意味を掴みあぐねていると、菊池が低く笑った。
「つまり、あんたの言う共犯者…オレと二人きりになったってことだよ」
「共犯者と言ったって、そっちは動けないだろう?動けないのなら特に害は―――」
 続けようとして、不意に右手首が引かれた。先程の左手とは比べ物にならない強い力に、人見は思わず悲鳴を上げた。
「うあっ…!!痛っ―――!!」
 ギリギリと小指が締め付けられる。ピアノ線が食い込むのが分かった。
「痛、や、やめろ……ッ!!そっちこそ締め付けられるんじゃないのか…!?」
「…オレ痛みに強いから平気なんだよ。じゃあ質問させてもらおうかな。裏切り者さんに」
「う、裏切り者…?」
 菊池の蔑んだような表現に、人見は眉を寄せた。
「裏切り者だろ。あんたがおっさんの出題内容を当てたことで、オレの解答権利を増やすチャンスが奪われたんだから。あんた何?自分さえ良けりゃいいとでも思ってんの?」
「お、思ってない…っ、けど、一刻も早くあの人をここから退場させないと、…ッ、病院に連れてかないと、危険だろう…!?」
 小指の痛みに耐えながら人見が怒鳴ると、菊池が笑ったようだった。
「はあ?危険?」
「…口、…手当てしないと…」
「はっ、大丈夫だって。あんくらいで死にやしねーよ。あんなエロ親父。寧ろ縫われて正解だろ。二度とフェラなんかできねーぜ」
 右側でけらけら笑う菊池に、人見はようやく危機感を覚え始めた。
「……知り合い……だったのか?」
 人見の低い声に、菊池がぴたりと口をつぐんだ。
「……ノーコメント」
「菊池って、本名か?」
「…ノーコメント」
「本当に、共犯者なのか?」
「……ノーコメント。…なあ、もっと楽しい話しようよ。あんたの悲鳴結構キたんだけどね。これ以上保ちそうにないから勘弁してやるよ」
 そう言い放って、菊池は引くのを止め、左手を元の位置に戻した。



「あんた、永瀬仁巳になにしたの?」



 人見はゆっくり顔を上げた。
 菊池の方に、顔を向ける。



「仁巳の……知り合い、なのか?」















 ―――開始から6時間が経過しました。質問を受け付けます。ただし、一人一問までとします。では、Bからどうぞ。



「そこに、永瀬仁巳がいるのか?」



 ―――その質問には答えることが出来ません。では、Cの質問を受け付けます。



「Bの回答者の本名は、本当に人見なのか?」




 ―――違います。登録されている氏名と異なります。以上、また6時間後に受け付けます。質問は一度切りですので、慎重に行なってください。残り回数、3回です。
 





「…なんで、お前が仁巳の名前を知ってるんだ…?」
「…あんたこそ。なんで仁巳がここにいるって思ったんだよ?なんか確証でもあんの?」
 いつの間にか6時間経過していた事実に、人見は一気に疲労感を覚えた。
 監禁されて6時間。あと、18時間もある…。
 こんなところで足止めを食っている場合ではなかった。自分には早く行かなければならない場所がある。一刻も早く。
 隣の菊池という男は、左側の口を縫われた男を知っていた。更に、仁巳のことを知っている。そして、『仁巳に何をしたのか』と人見に尋ねてきた。そして、『人見』が本名ではないことを見破った。
 菊池が犯人と共犯の可能性はかなり高い。しかし、一体いつまでこの茶番を続ける気なのか。人見を陥れたいのなら、さっさと正体を明かしてしまえばよいものを――


「…恨まれるようなこと、したの?」


 菊池が笑ったようだった。
 人見は顔を上げた。右側に向ける。
「こんな訳分からないゲームに参加させられるような」
「…そっちこそ」
 人見の低い声に、菊池が笑うのを止めた。
「あの男性に酷く恨みを持ってたんじゃないのか?『縫われて正解』だとか何とか……もしかして、犯されでもしたのか?」



 物凄い力で、右手を後ろの壁に叩きつけられた。
 悲鳴を上げるのを忘れる程、一瞬呼吸が止まるかのような鋭い痛みが右腕から全身に走った。
「――――ッッ!!!」
 熱い液体が手首に伝ってゆくのが分かった。見えはしないが、皮膚が裂け、肉半分ピアノ線が食い込んでいるのが分かった。断続的な痺れが、右手を襲う。ピアノ線の所為で小指に血は通っていないはずだが、右手全体は火傷したかのように熱かった。
 しかしそれは、繋がれている菊池も同じはずだ――



「てめえが言うんじゃねえよ。変態野朗。お前も一緒なんだよあいつと」
「……な、なんの…話だ…っ」
 痛みが勝って、上手く言葉を紡げない。やっとの思いで人見は発言した。しかし、それには答えずに菊池が声を荒げた。
「もういいか?もういいよな、仁巳ィ!もうまだるっこしいことはナシにしようぜ!」



 その時だった。
 機械的なアナウンスが、人見たちの部屋に届いた。




 ―――ルールを変更します。一度だけ、チャンスを与えます。Bに問題です。犯人は誰でしょう?





「犯人……」

 犯人、犯人、犯人、犯人、犯人………………………



 犯人って…………




「…何の……、犯人だ……?」




 このゲームの?それとも……




「なんで苗字変わったの?人見さん」




 犯人。




「正解が分かった」




 ―――…では、解答をどうぞ。





「俺だ」







「惜しい」





 すぐ傍で、菊池の囁き声がした。














 光が戻った。
 長い時間視力を奪われていた所為で、薄暗い光でも目が慣れるのに時間を要した。瞬きを繰り返すことでなんとか回復させると、ぼんやりと部屋全体が見えた。菊池の説明通り、古くて埃っぽい倉庫のようだった。彼の説明と違っていたのは、菊池の右手だった。彼の右手は、パイプに繋がれてなどいなかった。手錠もかけられていなかった。左手のみ、人見と繋がっているだけの状態だった。よって、彼は今、人見の真正面に立っていた。
 見たことの無い少年だった。背は低くないが、酷く痩せていた。特徴のある鋭い目で、真正面から人見を見つめていた。
「初めまして。人見先生」
「……君は…一体…?」
「僕の幼馴染み」
 抑揚の無い声が聞こえてきたのは、菊池の真後ろからだった。
 その声を聞いた途端、一瞬人見は痛みを忘れた。自分の置かれている状況も忘れた。一瞬で、数年前の記憶がフラッシュバックした。
「仁巳…」



 永瀬仁巳は、菊池の真後ろの鉄製扉の横にしゃがみ込んでいた。
 数年前よりも伸びた長い前髪の所為で、表情が余り読めなかったが、虚ろな瞳をこちらに向けていることは確かだった。
 人見が思わず立ち上がると、菊池が空いた右手で人見の肩を押さえつけて椅子に押さえつけた。人見はうめき声を上げた後、菊池を通り越して仁巳に質問した。
「ずっとここに…いたのか?」
「…まさか。あのおっさんと入れ替わりでここに入っただけだよ」
「君も繋がれているのか?」
「…んな訳ねえだろ」
「ずっと捜してた。妻とはもうすぐ離婚するんだ。彼女は今日海外に発つから、今日中に離婚届を出す。そうしたら君を捜しに行こうと思ってた」
「あ、そう」
 興味の全く無い様子で、仁巳が緩慢な動作で立ち上がった。ゆっくり菊池に近づく。すると、菊池と人見を繋ぐ手錠の、菊池の左手に掛けられた方の手錠を解放した。そして、椅子の背もたれに、その空いた手錠を掛け直した。これで人見は両手首を椅子の後ろに拘束される形となった。
 人見の顔色が変わる。
「…な、何する気だ…?」
「不正解者は、二度とここから出られません」
 淡々とした仁巳の言葉に、人見の目が限界まで見開かれた。
「じょ、冗談じゃない!ふざけるなっ!!大体、犯人って…クラス内のイジメのことじゃなかったのか!?それとも、このゲームのことか?それならお前が犯人なんだろう、仁巳!どこが不正解…」
「ぶぶー」
 無表情で口を尖らせた仁巳を見て、菊池が人見の座る椅子の足を蹴った。大きな音を立てて、人見が椅子ごと、コンクリの床に倒れた。叩きつけられた右手が痛むのか、醜い悲鳴を上げる。
 その姿を無表情で見下ろして、仁巳が手を振る。
「じゃあねー、先生。ゲーム、面白かったよ。さよーならー」
「おい、待てよ…冗談だろ…!?おい!!仁巳!!俺お前を迎えに来たんだぞ!?おいっ!!!」
 人見の叫び声は何もない部屋に響くだけで、仁巳は菊池の開けてくれた鉄製扉を潜って外へ出た。










「あのおっさんはどうした?」
「…大通りの植え込みの中に放り込んできた。運が良けりゃ助かるだろ。菊池、手は?」
「平気」
「見せろ」
 自由になった手を、ぶんぶんと勢いよく振る菊池を見咎めて、仁巳は彼の左手首を取った。うっすら血の滲む小指の付け根を丁寧に舐める。
「…お前まで繋ぐことねえのに」
「…念には念を、だよ」
 二人が向かい合って、少年らしく笑っていると、奥の部屋から声がした。人見の倒れている方ではない部屋。即座にそちらに向かうと、数台並べられたモニターの前に座った人見がにこやかに言った。
「これで完了?」
「はい。後は僕たちで何とかします」
 仁巳が頷くと、人見がにやりと笑って、パソコンの置いてある席から立ち上がった。パソコンの画面には、まだ何かカメラに向かって叫んでいる人見の姿が映し出されている。
「これからどちらへ?」
「パリ。商談があんの。急がないとやばい」
「じゃあ二度と会えませんね」
「会う気ないんでしょ」
 人見が声を立てて笑うと、仁巳も微かに笑った。
「じゃあね。あんま変なのに捕まるんじゃないよ。男運悪いんだから」
「早紀子さんもね」
「はは。アイツは本物だよ。教え子に手出した挙句忘れられなくて、そいつの名前と同じ苗字の女と結婚するくらいの変態」
 早紀子がパソコン画面の中で這い蹲る男を冷たく見下ろした。
「いらねえよ、ガキに手出す変態野朗なんか」



 早紀子が慌しく去った後、菊池は仁巳に声を掛けた。仁巳は、じっとパソコンの中の人見を見つめていた。
「…気になるの?」
 菊池の声に、仁巳がゆっくり首を振る。
「いや」
 仁巳は美しい少年だった。幼い頃から周囲の眼差しを集め、悉く危険な目に遭っては、菊池がその場を救ってきた。その度に、仁巳が自分を信用してゆくのを、菊池は実感していた。綺麗な仁巳に信用されることが、菊池にとって唯一最大の存在意義となっていた。だから、彼のためなら何でもする。そう、誓った。菊池は仁巳の、その美しさに感動し、その美しさを絶対に許せなかった。故にその美しさを汚す者は、どうなってもいいと思う。仁巳に手を出す奴は、全部片付けてゆく。そう、決めた。担任である人見のクラス内でのイジメの時もそうだった。よもや人見が、イジメから助ける見返りに仁巳を求めるとは思ってもみなかった。信用していただけに、仁巳のショックは大きかったようだ。だから、仁巳に手を出した中年男は勿論、人見も、消えてもらうことにした。
 仁巳のせかいには、自分ひとりだけいればいい。


「行こうか」
 仁巳が立ち上がって、菊池に手を伸ばした。
 菊池は迷わずその手を取った。
「…もういないだろうな。お前に手出した奴」
 ぼそりと呟いた菊池に、仁巳がにやりと笑って指差した。
「後はお前くらいだよ」



 二人は無邪気に笑い合って、外の世界へと飛び出した。





●自己批評
『グロい話が苦手な方、本当にすみませんでした…汗
ソリッドシチュエーションが書きたくて、こんな話になってしまいました。
あんまりBLっぽくない気がします。でも書けて楽しかったです。
ありがとうございました!』

《タカハラ マナ》



゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

『恋幻〜RENGE〜』

著者:遥人




穏やか過ぎる陽射しの中に、鼻腔をくすぐる甘い香りが漂い始め、訪れた春の風景が今年もまた、胸に燻り続ける想いを呼び覚ます。

幼かったあの頃の淡い恋心は、時を重ねるごとに、色鮮やかな優しさと切なさだけをこの胸に残し、己の中で知らず美化されていく思い出は、同時にそこから動き出す勇気すら奪っていった。
叶うならこのままずっと、優しい夢の中に生きていたいとすら願ってしまうほどに、まだ純粋だったあの頃の想いは、徐々に薄汚れていく心の救いで、同時に弱い心の象徴のような存在だった。

しかし、留めておきたいと願いながらも、少しずつ薄れていく記憶の中で、あの頃出会った彼の笑顔だけは今も鮮やかに甦り、過去に縋る俺の弱さでさえも許してくれているような。そんな錯覚を現実と捉えようとする俺の、たったひとつの支えだったんだ。




昼間は春の穏やかな陽射しが差し込むこの部屋も、夜の闇のベールを被ると共に、妖艶な雰囲気を色濃く漂わせる。
会えば、決まりごとのように重ね合わせる肌の温もりに、今日も縋り痴態を晒す。

「祐希──…愛してるんだ…」

そして、いつだって繰り返される睦言は、どこか不安を湛えているようで。
俺を見つめる、雄の本能を剥き出しにした、欲望に濡れるその瞳がいつも不安気に揺れていて。
自分がこんな顔をさせているのだと、それを理解しているからこそ、胸に甘く広がる快感。その不安を取り除いてやりたいと思う心の裏で、ただ俺だけを見つめ求めるその瞳の存在が、そのまま変わらずそこにあればいいとさえ願う。

「祐希……祐希……」

何度も繰り返される己の名が、この瞬間、どうしようもなく愛しく思える。
決して同じ言葉を返そうとはしない俺の身体を、貪りつくそうとする目の前の恋人の首に腕を絡め、誘うように腰を揺らせば、簡単にこの手に落ちてくる幼さが愛しくて。
その激しさに飲み込まれそうになる、まさに至福とも言えるその瞬間、すぐにでも手放してしまいそうな理性の裏でいつも脳裏に思い描くのは、過ぎ去ってしまったあの頃の、切なく淡い夢物語──…。







「祐希(ゆうき)せぇ〜んせっ!」

ガラリと、勢いよく開け放たれた職員室の扉。同時に聞こえてきた、呆れるほどに煩い声に、机に肘を突いた手でこめかみを押さえつける。
休み時間になると繰り返される、うっとおしい事この上ない呼びかけ。

「ねえねえ、今日こそ一緒にお昼食べようよ」

日常と化してしまったこの風景に、最早注意を促す教師1人見当たらない。
それどころか、こうして訪れる生徒の存在に、「いいですねえ」なんて、そんな嬉しくない声を同僚教師からはかけられる始末だ。

「吉沢ぁ〜…何度言ったらわかるんだ。弁当は教室で友達と食え!」
「え〜?本当に冷たいよな〜。こうして足しげく通って、もう3年近いってのに、いっつも言う事同じなんだからさ」

にこにこと笑顔を貼り付けて、懲りもせずに弁当箱を持参してくるこいつは、3年の吉沢 輝一(よしざわ きいち)。
何が楽しいのか知らないが、1年と3年と、こいつのクラスの教科担当を受け持ってはいるものの、担任でもない俺に、それこそ高校入学当時からやたら懐いてくるこいつは、でかい図体に似合わず素直な奴で。
人好きする、いつも貼り付けられているその笑顔は、まあ……嫌いじゃない。

でも、3年生は卒業を控え、すでに自由登校となっているこの時期になってもまだ、ご丁寧に弁当持参でこうして通ってくるこいつが、正直少し疎ましかった。
嫌いではないが、しつこいくらいに寄せられる、はっきりと意味を見出したくない好意は、正直に言ってしまえば、迷惑以外のなにものでもなかったんだ。

「もう、卒業まで時間ないんだぜ?残された時間がないんだからさ、少しくらい付き合ってくれても罰当たんないと思うな〜」
「その残り少ない貴重な学生生活の時間を、こんなくだらない事に費やしている方が、どうかと思うがな」
「くだらない!?な〜に言っちゃってんの?俺にとっては、大事な大事な時間なんだぞ」

わざとらしい程に張り上げた声で抗議の言葉を発し、ぶすぅ〜っとむくれた表情を作り出したところで……いくら生徒と言えども、自分よりも遥かにデカイ図体した奴を可愛いだなんて、思えるわけないだろうが!このバカタレが!
……と、怒鳴ってやりたい気持ちをなんとか押し込める。

ウザイくらいに纏わり付かれていても、俺は教師だ、教師……。
たかが生徒の、こんな悪ふざけにいちいち振り回されてどうする。
そうだ……落ち着け、落ち着くんだ俺!



こんなはずじゃなかった。
別に、教師という職に、特別な思い入れや憧れを抱いていたわけじゃない。教員免許を運良く手にしたから、就職活動の一環として受けた有名私立高校に、これまた運良く採用されて。
今や難しいとされている教師という職業だって、仕事だと割り切ればそこそこにはやっていけるだろうと。
思春期真っ盛りの中学生に比べれば、高校生の方がまだ、幾分扱いだって難しくはないだろうし、深く突っ込みさえしなければ、たいした問題にだって直面する事もないさ……と、本当に軽い気持ちでついた職だったんだ。

それなのに、蓋を開けてみればどうだ!?
教師になって1年目は、まあそこそこにやっていたと思う。今だって、別に大きな問題を抱えているわけでもなく、教師生活4年目にしてようやく、1年生の担任を任されるようにもなった。
そこそこに生徒にだって慕われてはいるし、教師イジメの的にならないでいるだけ、俺の教師生活は順調だと言えるだろう。……こいつ、吉沢の存在さえ除けば。

そう!問題はこいつなんだよ!
教師生活2年目の春、まだ担任はおろか、副担任のクラスすら持っていなかった俺は、1年生の数クラスの数学担当という、当然新人の域を出ない新米教師で。
それでも、それなりに教師生活にも慣れ、親しみを込めて「狩野(かのう)ちゃん」などと、俺としてはあまり喜ばしくないニックネームで呼んでくれる生徒も、チラホラと見かけられるようにはなっていた。
そんな、平穏だった俺の教師生活に、能天気なほどに明るい……いやいや、やかましいほどに煩わしい嵐を運び込んできやがったのが、他ならぬこいつ!今目の前で、懲りずに弁当箱の入った袋を突き出してくるこいつ……吉沢だ。

約3年前の春。ほんの少し前まで中学生だった新入生達は、揃って初々しく緊張した面持ちで並んでいた。
もちろん吉沢もその中の1人で。今よりも2回りは小柄だったはずのこいつは、それでも当時から満面にニコニコと貼り付けた笑顔の存在だけは、今も変わる事ないままなのだが。
図体ばかりが、どんどんデッカクなりやがって。

「祐希せんせぇ〜」

俺よりも小さかった頃は、まだ可愛いとも思えたが、今や俺よりも遥かにデカク育ったこいつに、そんな風に甘えるように名前を呼ばれたって、可愛いだなんて思えるはずがない。

「ズルイよな〜…俺がせんせぇより大きくなったら、ちゃんと真面目に考えてやるって、そう言ったくせにさ…」

真横に腰を落とし、中腰の体勢で机についた腕に顎を乗せ、少し上目遣いで視線を向けてきながら、まるで俺に非があるのだと言わんばかりに愚痴を零す。

「そんな事言ったか?」
「うわっ!ずっりぃ〜、とぼけてる!!俺、今すっごく傷ついちゃったもんね」

大げさに胸を抑え込み蹲りながら、チラッと窺うようにして見上げてくる視線は、そこにおかしな意味など含まれていなければ、まあ……可愛い生徒の1人として見れない事もない。
が、しかし!生憎と、俺は男子生徒からのふざけた告白を真に受けるほど、おめでたい思考回路は持ち合わせちゃいないんだ。

「ふざけてばっかいないで、さっさと教室に戻れ」
「だぁ〜かぁ〜らぁ〜!一緒に飯食おうってば」
「い・や・だ!おまえとなんて、落ち着いて飯が食えるか。食べた気がせずに、無駄に疲れるのがオチだな」
「ひどい!ひどすぎるぜ、祐希ちゃん」
「その『祐希ちゃん』ってのをやめろ」
「なんで〜?可愛い名前じゃん。せんせぇにぴったり!祐希ちゃ〜ん」

立ち上がり、まだそこに座る吉沢の腕を引っ張り上げながら、ギロリと睨みを利かせるものの、相変わらずへらへらと笑うこいつは、全く気に留めた様子もなく、嬉しそうにその名前を繰り返し紡ぎだす。
その事に、ほんの少しのくすぐったさを覚えながらも、同時に胸を締め付ける切なさに、無意識のうちに心が息苦しさを訴えかけてくる。

本当に苦手なんだ。こいつに名前で呼ばれるのは……。
昔俺の名を呼んでくれた、あの声を思い出してしまうから。
皮肉な事に、こいつとそっくりな声で俺の名を呼んでくれた、あの声を思い出してしまうから───…。





手ひどく苦い恋の思い出は、俺だけじゃない……誰だって1度は経験するものなのかもしれない。
そもそも、あの頃の俺の恋は、手ひどいだなんて形容の仕方はおよそ似つかわしくない、幼く小さな恋心だった。

自分が、同性相手に恋心を抱く、いわゆるゲイなのかもしれないと、それを認識したのは、本当に恋を恋と捉えられない程に幼かった頃からの想いが、見事無残に散ったあの時だった。
いや、正直に言えば、未だにその認識は確証を得ず。たった1人恋心を抱いた相手が、自分と同じ男だったのだという事実以外、確かめる術を持ち合わせていないのが現実だった。
それでもあれ以来、男はおろか女相手にもその手の感情を抱く事ができない俺は、ある意味で感情の欠落した欠陥人間なのかもしれない。

自分で自分がわからない。
そんな俺でも、確かに抱いた恋心は、未だ胸に燻り続け。叶う事のなかった想いに、半ば縋るようにして生きていた俺は、その頃の純粋な想いを失くしてしまった今もなお、どこかでそれを失くす恐れを抱き続けていたのかもしれない。

「ねえ、せんせぇ……ちゃんと答え聞かせてよ」

春と呼ぶにはまだ肌寒さが残り、ひんやりとした空気が漂う教室の中、向かい合って立つこいつからは、いつもとは違う雰囲気が漂ってくる。
滞りなく終わりを告げた卒業式の、余韻を味わう人々の喧騒が、窓の下に落ち着かない風景を作り出し。本来ならば、その場にいるはずのこいつに呼び出された俺は、その真剣な視線に捉えられた瞬間、来るべきではなかったとひどい後悔に苛まれていた。

いや……こうなる事はわかっていたんだ。
初めて会った時から、妙な好意を寄せてきていたこいつの、冗談のように紡ぎだされる言葉が、本当は真剣なものであった事など、俺はとっくに気づいてた。
だからこそ、正面から向き合う事を避け続け、全てを冗談で流してしまう事で、俺は己の中の自制を保ち続けてきたのかもしれない。
それをわかっていながらも、こうして呼び出しに応じて、誰1人として残っていない教室に出向いてしまったのは、結局はどこかでその真っ直ぐさに惹かれ、それを求める俺の弱い心が原因だった。

「俺ね、せんせぇの事が好きだよ」

痛いほどに真っ直ぐな視線が、そして怖いくらいに真剣なその言葉が胸に突き刺さる。
その視線から逃げる術などわからずに、1ミリだって逸らす事などできないのに、そんな俺の心に響いたのは、真っ直ぐすぎるこいつの想いだけではなくて。

『俺、祐希の事好きだよ』

あの頃、彼が言ってくれたその言葉が、こいつの声に乗って同時に甦ってくる。
こいつの言葉に心が揺さぶられるのは、単純にその気持ちが嬉しいと思うからなのか、それともずっと胸に巣食い続けてきた、あの頃の想いが重なってしまうからなのか……。

「だから、いつか俺が想うのと同じように、せんせぇが俺の事好きになってくれたらいいなあって思うんだ」

『だから、いつかおまえが想ってくれるように、俺もおまえの事が好きになれるような気がする』

耳から入ってくる言葉と、胸から湧き上がってくる遠い記憶が、俺の思考を混乱させる。

「今すぐが無理だって言うなら……でも、可能性がゼロじゃないなら、俺はずっと待っていたいんだ」

『今すぐに答えは出せないけど、おまえには待っていてもらいたいって……それは我侭かな?』

まるで正反対の意味を持つ言葉なのに、こんなにも胸を締め付けられるのは、彼の言葉に期待を抱き、バカ正直に待ち続けていた頃の俺の姿と、今俺に気持ちを伝えてくれるこいつの純粋な想いが重なってしまうからだ。
待ち続けても叶わなかった想いへの未練が、未だにそこから抜け出せずにいた己の弱さを増長させていき……今のこの現実を、真っ直ぐに受け止めきれない歪んだ感情。

「待つって……可能性があるなんて、俺は一言も言ってない」
「それはわかってるよ。でも、ゼロじゃない…違う?少なくとも、せんせぇは俺の事嫌ってないだろ?」

不安気に揺れる瞳。それでも紡ぎだされる言葉は強くて。
その真っ直ぐさに惹かれてしまう心は、きっと誤魔化しようがなく……本物だった。

「俺は、この気持ちが変わらないって自信があるんだ。初めて見た時から、ずっとせんせぇが好きだったから」

遠い過去に置き忘れてきてしまっていた、誰かを好きだと想う純粋な気持ち。
それを抱くこいつの姿が眩しくさえ思えて。同時に、俺が失ってしまったものをその手に持つこいつが、妬ましいとさえ感じた瞬間だった。

「変わらない?そんなものは存在しやしないよ」
「せんせ……?」

こいつの言葉と視線に、思わず絆されてしまいそうになるほど、惹かれている自分がいるのに。同時に、どうしようもなくドス黒い感情が心を支配する。

「どんな言葉で飾ったって、所詮人の気持ちなんてあてにあらないものだ」
「どうして?俺は、ずっとせんせぇが好きだったよ」

『俺は、ずっと祐希の事が好きだよ』

また脳裏で重なる声。

あの頃の彼の言葉には、今こいつが言うような感情は含まれていなかった。
それは純粋に、幼馴染として、友人としての俺に向けられた言葉で。それを理解しながらも、ほんの少しの可能性にかけて待ち続けた俺の想いは、結局叶う事がないまま。

「これからも、きっとずっと好きだよ」

『これからも、おまえは大切な存在である事に変わりはないよ。でも……ごめんな』

そう言って彼は、10年間待ち続けた俺の気持ちを置き去りに、1年間付き合った彼女と昨年結婚してしまった。

わかってる。彼は何も悪くない。
不確かな約束に縋り、僅かな期待を捨て切れなかったのは俺自身だ。
それでも、彼女ができた事すら俺に言わず、あの頃の言葉ですら忘れてしまったかのように、突如結婚すると告げてきた彼を……それでも憎む事などできなかった。
憎む事ができたなら、自分勝手だと知りながらでも、彼を責める事ができたなら、忘れる事だってできたかもしれないのに。

「おまえは……夢を見ているだけだよ。若い頃は、そういう間違いだってある。後になって気づくんだ……その夢物語の現実に」
「せんせ……?」
「あとになって、やっぱり違いましたなんて言われちゃあ、俺もおまえも惨めになるだけだからな。だから……さっさと忘れろ」
「どういう意味!?それって……惨めになるって!」

自分の発した言葉の意味を明確に判断できず、ポツリと呟いた俺の腕を、伸びてきた大きな手が鷲掴んでくる。
その強さに眉を顰めながら、俺はたった今自分が発してしまった言葉に我に返った。

「なんでもない…っ!離せ…」
「嫌だ!ちゃんと聞かせてよ。俺、本気なんだ。本気でせんせぇの事…!」

射抜かれてしまいそうなほどに強い眼差し。
掴まれたその場所から、熱いくらいに流れ込んでくる想い。

「男同士で、惚れた腫れたのと……おかしいだろ」
「なんで?男だとか女だとか、そんなに気にしなきゃいけないのか?ただせんせぇが好きだって、それだけじゃいけないのか?」

まだ過ちのなんたるか、その全てを理解しきれていない、挫折を知らない少年。
俺が失くしてしまったものをその手に握り締め、幼い想いをぶつけてくるこいつに、惹かれている自分を誤魔化せやしないのに。それでも、心の中で必死にその想いを押し留めようとする俺は、こいつへの嫉妬の感情すら同時に抱いてしまっていたんだ。
真っ直ぐ過ぎるほどの純粋な美しさに感動すら覚えるのに、だからこそその美しさを絶対に許せなかった。

「試してみるか?」
「……え?」

何故あの時、自分がそんな行動に出てしまったのか……そのわけは5年の時を経た今ですら、はっきりとした形を伴わないままで胸に燻り続けている。
ただあの時は、真っ直ぐに想いをぶつけてくるあいつが眩しすぎて──…憎かった。

わざとらしいほどに、ゆっくりと伸ばした手をその首に絡ませ。
捉えた視線を絡ませ、焦れったい仕草で重ね合わせた唇の感触は、今でもはっきりと覚えている。

「せんせ……っ!?」

絡ませた腕から、触れ合った場所から伝わってくるあいつの震えが、不思議なほどに残酷な感情を呼び起こし。汚してやりたいと……ただそれだけだった。
俺とキスをして、こいつがほんの少しでも嫌悪感や拒絶を表したら、そら見た事かと、所詮はその程度の気持ちだったのだと、笑い飛ばしてやるつもりでさえいたのに。

「祐希──…っ!!」

そんな俺の浅はかな考えは、幼すぎる雄の本能を煽るには十分すぎる刺激になってしまったらしい。
一瞬尻込みを見せたこいつの反応に、鼻で笑ってやろうと身体を離した瞬間、抗えないほどの力で抱きすくめられ。

「吉ざ……っん…」

驚きに目を見開いた俺の唇は、まるでしゃぶりつくような勢いで貪られた。
あまりに幼く稚拙なその口付けは、お世辞にも気持ちがいいだなんて思えるような代物ではなかったが、気づいたときにはその熱情に浮かされるかのように、夢中になっていたのは俺の方だった。

不器用に絡み合う舌の存在は、性的欲求など感じさせられるようなものではなかったはずなのに、容易く俺の理性の箍を外し。
口付けの合間に漏らされる、俺の名を呼ぶあいつの声が、あの頃の彼の声と重なり、あり得ないほどの興奮を胸に迸らせたんだ。

そして、改めて気づかされてしまったんだ。
こいつに惹かれていく心の裏で、俺はまだ彼への想いを捨て切れずにいるのだという事実に。
そんな想いを抱えたままで、こいつの気持ちを受け入れられるはずなどないではないか。
俺の歪んだ感情で、こいつの綺麗な心を汚してはいけないだなんて……ほんの少し前に、汚してやりたいと思ってしまうほどに憎いとさえ思ったのは、他の誰でもない俺自身なのに。

相反する感情の狭間で、あの時俺が見出せた決断は、たったひとつしかなかった。

「好きだよ……好きなんだ……」

ガタガタと、周りを囲む机の列を乱しながら、縺れ込むようにして倒れこんだ床の上。
床に叩きつけられる衝撃から、俺の身体を守るようにして抱きしめてくれた吉沢の腕が、縋るようにして力を込めてきて。
そして、明らかな意味を含んで仕掛けられた、やはり幼い口付け。

「それで気が済むなら、俺を犯せよ」

抵抗をする事なく、それを受け入れた俺の唇が発した言葉は、自分でもゾッとするほどに冷たく尖ったものだった。

「せんせ……?」

こいつが、そこまでを考えていたのかなんて、それは俺にはわからない。
だからそれは、こいつの将来の為を思って、わざと突き放すような言い方をしたわけでもなんでもなくて。
受け入れるべきではないと、それを理解しながらも、その存在を手に入れたいと願う、とことん相反する感情から出た言葉だった。

「どうした?怖気づいたか?」

わざと挑発するような仕草で、触れ合った足を絡ませ、首筋へと伸ばした手で引き寄せ口づける。
と、全身を強張らせながらも抵抗を見せなかった吉沢の唇が、乱暴に俺の唇を塞ぎ、同時にシャツの中へと滑り込んできた手が、余裕なく胸元を這い回る。
触れられたその手の冷たさに、ゾクリと肌が粟立ち、しかし感じる内側の熱に思わず小さなため息が漏れ出したその瞬間。

「ご…ごめ…っ!」
「吉沢…?」

我に返ったように身体を起こした吉沢が、ほんの少し乱れた俺のシャツを直し、今にも泣き出しそうな表情で床に転がったままの俺の身体を、支え起こしてくれた。
期待をしながらも、どこかでこいつが思い留まってくれた事にホッとしたのも本当で。
掴まれた腕を振り解きながらゆっくりと立ち上がり、未だへたり込んだままのこいつを見下ろせば、俯いたままの瞳からポタポタと零れ落ちた雫が、床のタイルに小さなシミを広げてゆく。

何を泣く必要があるんだ?別に俺は女じゃない。1度や2度押し倒されたくらいで、しかも未遂だったというのにいちいち傷つくほど、初心な心は持ち合わせていないぞ?
そう声に出しかけた言葉は、しかし発する事が何故か躊躇われ。
だからと言って、慰める意味でこいつに触れる事もできず。ただ呆然と見下ろす俺に、謝罪の言葉を繰り返すこいつが、不意に力なく立ち上がり。その目尻を濡らす涙を腕で拭いながら……笑ったんだ。

「ごめんね、せんせぇ……俺、今無理やりやっちゃうとこだった」
「別に……」

無理やりだったわけじゃない。押し倒された形にはなっていたが、間違いなく誘ったのはこの俺だ。
そう言おうとした俺の言葉は、静かな吉沢の声に遮られた。

「こんな事がしたかったわけじゃないんだ……って、今更説得力なんてないけど。でもさ、俺知ってるから」
「知ってる…って…?」
「せんせぇがさ、俺の事嫌いじゃないって事と…」
「そ…れはっ……」
「うん、教え子としてだよね」

静かな声で語りかけてくる吉沢の表情は、この3年間うっとおしいくらいに纏わりついてきた、無邪気な少年のものなんかではなくて。つい今しがた見せた、欲望を湛えた雄のものでもなくて。
ただ穏やかなその笑みは、これまで見てきた吉沢のどんな表情よりも、ずっと大人びて見えたから。ほんの僅か跳ね上がった心臓の鼓動の意味を、全て理解しそうになった己の思考に、正直戸惑った。

「そんでさ……誰か好きな人がいるって事も…」
「───…っ!?」
「せんせぇさ、自分で気づいてないだろ。時々さ、すげえ寂しそうな顔で、教室の窓の外見てんの。その顔がさ、すげえ綺麗で……俺が好きになったせんせぇは、誰かの事を想ってるせんせぇだった」

そう言って笑った吉沢の表情は、やはりドキッとしてしまうくらいに綺麗だった。
こんなにも穏やかな笑みを浮かべる奴を、俺は知らない。今目の前にいるのは、俺が知ってる吉沢 輝一じゃない。

「おまえに……何がわかる…」
「わかるよ。だって、俺は本当にせんせぇの事見てたもん」
「おまえなんかに…っ!」
「わかってたまるか…って?残念!わかっちゃうんだな〜これが」

「ちょっと切ないけどね…」と、そうポツリと呟いたこいつの声こそ切なくて。痛いくらいに締め付けられる胸が悲鳴を上げる。

「だからさ、今すぐが無理だなんて事、ちゃんとわかってる。でもさ、いつか……せんせぇがその人の事を忘れられる時がきたら、その時は俺が隣にいたいなって……そう思っちゃったんだ」
「吉ざ……」
「でも、こんなんじゃ無理だよね。俺ってば、てんでガキで……あんな事したって、せんせぇは俺のものになんかならないのにさ」

まるで自分に言い聞かせるように紡ぎだされるその言葉は、切ない痛みとなって俺の胸に浸透してくる。

「ごめんね、せんせぇ。でもさ、いつか……俺がちゃんと大人になった時、もし会えたら……。そしたら、今度はちゃんと考えてよ。冗談なんかじゃないんだよ?俺はね、本当にせんせぇの事が好きなんだ」

言いながら、そっと目の前に差し出された大きな手。その手が何を望んでいるのか、半ば混乱し始めていた思考では、そんな簡単な意味ですらわからずに。
戸惑いに揺れる瞳で、ただその手を凝視する俺に、フッと笑みを浮かべた吉沢が、俺が握り返すその前にゆっくりと引っ込めたそれを、静かな仕草でズボンのポケットへと突っ込んでしまった。

「祐希せ〜んせ!3年間お世話になりました。せんせぇに会えたから、俺学校に来るのが楽しかったよ」

ぺこんと、軽く頭を下げた吉沢が最後に向けてくれたのは、この3年間で見飽きるほどに向けられてきた、俺がよく知る笑顔だった。

「またね、祐希せんせ!」

そして、俺からの言葉を待たずに、こんな日には当たり前のように交わされる、「卒業おめでとう」のその言葉すら言わせてもらえないままに、いつもと変わらない軽快な足取りで教室を出て行った吉沢の、その広い背中を追いかける事が俺にはできなかった。

「何だ……それ…」

自分で呼び出したくせに。あんなにも真剣な表情で、声で告白してきたくせに。
どうして、俺の答えをちゃんと聞こうとしないで、そうやってあっさり出て行ってしまえるんだ?

取り残された教室の中で、呆然と呟いた自分の声が、妙に虚しく響き渡り。
それでも、傷つけてしまったはずのあいつが最後に見せてくれたのが、いつもと変わらない笑顔だったから。
頬を一筋伝い落ちた涙は、苦しいくらいに温かかった。







全てを解き放った、満たされた心と身体に、心地よい余韻が広がり。
ベッドの上でうつ伏せに転がる俺の背に、緩やかな愛撫が飽きる事なく繰り返される。

「愛してる──…」

そして、情事の間中囁かれ続けた、甘すぎる言葉は今も止む事はなく。

「そんなに大安売りされると、感動も薄れるな」

枕に頬を埋めながら、くすくすと笑みを浮かべ視線を流せば、一瞬切な気に歪んだ瞳が俺を映し出し。くしゃっと泣きそうに崩れた顔を隠すように、俺の背中に顔を埋めたこいつが、痛いくらいの力で抱きしめてくる。

「また……あの人の事考えてた?」

呟かれたその声は、本当に聞き逃してしまいそうな程に小さくて。無言のままで身を捩り、背中に埋められているその顔を覗き込もうとすれば、まるで駄々を捏ねる子供のように小さく首を振る。

「あの人って?」
「……何でもない…」

問いかけた俺に返されたのは、そんな誤魔化すような台詞で。次の瞬間、パッと上げられたその表情には、聞こえてきた押し殺すような声の存在など微塵も感じられない程に、いつもと変わらない笑顔が貼り付けられていた。

「おかしな奴だな」

くすくすと笑みを零す俺の頬に、そっと触れてきた唇が、徐々にその位置を移し。そして唇に与えられた、溶けそうなほどに甘い刻印。
そこから流れ込んでくる、愛しい恋人の切ない想いに、やはりくすくすと笑みを零す俺の心は、包み込んでくれる穏やかさに満たされていた。

「わかってるから。俺は大丈夫だから」と、声に出して告げられる事のないこいつの気持ちが、触れ合ったその場所から痛いくらいに流れ込んでくる。



5年前、置き去りにされた教室の中で、「またね」と言って去っていたあいつの声だけが虚しくいつまでも響いていた。
その背中を追う勇気も、そしてその意味ですら見出せず。ただ、己の頬を濡らす涙の存在は、何故かひどく温かく感じられたんだ。
それが、最後にあいつが見せてくれたのが、いつもと同じ笑顔だったからだという事は、嫌になるくらい理解していた。

追いかけたいと望む心と、今それをしても仕方がないと、半ば絶望にも似た気持ちで諦めてしまった事実。
その存在を手にしたいという願いと、それでも過去を引きずり彼を忘れてしまう事ができなかった俺の、あの時できた唯一の決断だったのだと。それを信じる気持ちは今も変わってはいない。

いつか本当に、再びおまえが俺の目の前に現れたとき、変わらず俺を想ってくれるなら、その時は躊躇う事なくその手を取っても許されるだろうか。
おまえを傷つけてしまってもまだ、自ら追いかける勇気もなく、ただ待ち続ける事しかできなかった卑怯な俺は、考えてみれば、あの頃からずっとその与えられた温もりに、甘え続けていたのかもしれない。



「いつか──…」

またしても、思い出の中に意識を引きずり込まれていた俺の耳に、不意に届いた囁き。

「ちゃんと俺を見てくれるまで、俺はずっと待ってるから」

そう言って、そっと頬に触れてきたこいつの唇が、あの頃と同じように微かに震えていた。
こんなにも真っ直ぐな想いをぶつけてくれるおまえを、安心させる言葉を俺は知ってる。

1年前、「追いかけてきちゃった」と、あの頃と変わらない笑顔で俺の目の前に立ったおまえを、俺がどんな気持ちで見つめていたか。おまえにはわからないか?
5年の時を経てもなお、変わらない想いを注いでくれるおまえの存在を、今俺は何よりも大切に思っているのだと、それを告げたらどんな顔を見せてくれるだろうな。
この5年間変わらず、俺がいつも脳裏に思い描くのは、おまえがあの時見せてくれた笑顔なのだと。それを告げたら、おまえはやっぱり同じ笑顔で、でもそこに泣きそうな表情を貼り付けるんだろうな。

なあ、輝一……俺は、ちゃんとおまえの事を愛しているよ。

実らなかった切ない初恋の思い出は、時を重ねるごとに美しい瞬間だけを脳裏に刻み残していくのに、2度目の恋は、美しさの中にも激しさをも増していき。
そしてそれは、やがて穏やかな波をも伴って、心の中に広がりを見せていく。
恋は恋でしかなかった思い出の日々と、流され飲み込まれそうな程の激情を刻まれながらも、やがて穏やかな愛へと変貌を遂げた恋。
もし、そのどちらかを本物だとするならば、俺は迷わず2度目の恋を選ぶだろう。





●自己批評
『短編を書き上げるのに、恐ろしく時間がかかってしまいました。
こんなに苦労したのは、もしかしたら初めてかもしれないというくらい、かなりの難題でございました。本気で、今回は参加を見送ろうかと思ったことは秘密です…。
お題を消化できているかどうか、最早自分では判断のつかないこの状況……
意味不明な内容になっていない事だけ祈りつつ。お目汚し、失礼いたしました!』

《遥人》



゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

『罪人の刻印』

著者:如月 七月




祖父の古い日記を見つけたのは、四十九日法要の日だった。
時々ひとりきりで閉じこもっていたという屋根裏部屋。
そういえば幼い頃、一度だけ一緒にここを訪れた記憶が甦る。
「狭いな……」
あの頃はとても広くて、大きく感じられたのに。
そんな自分に苦笑しつつ、僕は部屋の中央に置かれた小さな机に広げられたままだった日記帳らしきものに目を止めた。
「なにこれ…日記?」
祖父は几帳面な人だった。
こことは別の、若い頃からいつも書斎として使っていた部屋だってきちんと整理整頓されていて、こんなふうに大切なものを放り出しておくなんて考えられない。
よほど急いでいたのだろうか?
それとも何か理由があって、こんなふうに出しっぱなしにしてあったのだろうか?
「そろそろ時間よ。下りていらっしゃい」
屋根裏へと続く階段下から聞こえる母の声。
「あ、うん。すぐに行く」
そう返事をし、僕はためらうことなくその日記帳らしいノートを小脇に抱えて屋根裏を出た。




それから1ヶ月後。
春休みが終わり、新学期が始まってそろそろ一週間。
去年のクラスメイトだった友人や、顔だけは知っていても話したことのなかった同級生とも仲良くなれたそんな頃、僕たちのクラスに転校生がやってきた。
「黒橋瑛紀(くろはし えいき)です。よろしく」
漆黒の髪と切れ長の目が印象的なその彼は、ぐるりと教室を見回した後で僕に視線を止めた。
そらされることのないまっすぐな瞳。
それが気のせいじゃないと確信したのは、隣の席の友人が声をかけてきたから。
「転校生の奴さ、おまえに熱い視線送ってるじゃん? 知り合い? それとも一目惚れか?」
「なっ…どっちでもないよ」
なんだかその瞬間に恥ずかしくなって赤くなる僕に、その友人はニヤニヤと笑ったままだ。
思わずそらした視線を彼に戻せば、担任教師の話を聞きながら何やら頷いている。
ホッとしたのと同時に、なぜだか胸が高鳴る。
僕の隣の通路を後ろの席へと向かう彼をまたそっと伺い見れば、彼はまっすぐに自席となる場所を見据えたままで歩いていく。
もちろん、僕のことなどもう気に留めた様子もなく足早に。
それ以上は振り返ることも出来ず、ガタンと椅子を引く音で彼が席に着いたことを知る。
残りのHRの担任の話など、僕の耳に入るはずもなかった。

「黒橋だったよな? 昼飯一緒に食わねぇ?」
物怖じしない隣の席の友人が彼に声をかける。
彼は少しだけ何かを思うようにその友人を見つめ、それから隣に立つ僕へと視線を向けてくる。
「あ、自己紹介まだだっけ。俺は桐谷雅和(きりや まさかず)。んでこいつが、白崎英里(しろさき えいり)」
その瞬間、彼の瞳が驚きに揺れたように見えたのは、僕の気のせいだったんだろうか。
雅和は何も感じなかったようだし。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
静かに立ち上がる彼に、雅和は
「そうこなくちゃな〜。なんならメシの後で校内案内してやるぜ」
なんて楽しそうに笑う。
「ほら英里、行くぞ」
「あ、うん」
促されて雅和の後に従う僕を、今度は彼の優しい眼差しが見つめてくる。
なんだろう…この感覚は。
どうしてこんなにも、ドキドキするんだろう。
「そういや黒橋さ、朝のHRんとき英里のこと熱烈に見てたじゃん? 一目惚れ?」
学食に向かう途中の廊下で、雅和はそんなとんでもない問いを彼に向ける。
「ちょっ…雅和!?」
驚く僕に向けられた彼の視線は柔らかく、少しだけ申し訳なさそうで。
「そんなつもりはなかったんだが…昔の知り合いによく似てたから」
「なになに、前の学校で付き合ってた彼女とか?」
興味津々に聞く雅和に、彼は小さく首を振る。
「いや、もっと昔の知り合いだ」
「昔って…ガキん頃とか?」
「雅和! もういいかげんにしなよ」
どこか困ったような表情を浮かべる彼に僕が思わず声をあげると、彼が少し驚いたように僕を見つめてきた。
「そういうの、やめろっていつも言ってるだろ」
「あ〜悪い。ついついジャーナリストの血が騒ぐってかさ。あ、俺ジャーナリスト希望なんだよ。将来の夢ってやつ」
「そうか…頑張れよ」
特に気を悪くしたふうもなくその夢を応援する彼に、嬉しそうな笑みを浮かべて力強く頷く雅和がなんだか羨ましかった。

「……さっきは助かった。ありがとう」
学食の列に並ぶ僕に、後ろから彼がこっそりと声をかけてくる。
「え?」
「あいつの質問攻めを止めてくれて」
「あ、うん……」
思いがけない彼の言葉に、僕はなんと答えていいか分からずそんな返事しか出来ない。
「お〜い、こっちこっち」
一足先に席を取りに戻っていた雅和の声に、彼は僕を促すように頷いて先に歩き出す。
その後姿を見ながら、僕は屋根裏で見つけたあの日記帳のことを思い出していた。
深い深い後悔と懺悔の綴られたそれは、日記というよりはまるで物語のようで。
そしてなぜだか、それを向けられた相手が彼のように感じられたのだ。
「……でも、そんなはずない」
自分に言い聞かせるように呟き、僕もまた少し足早に先に席についていた2人の下へと近づいた。




それからというもの、休日はよく3人で出かけるようになった。
元々が世話好きな雅和は、街を案内するといっては彼を誘い、そのたびに僕にも声をかけてくるから。
そして夏休み間近のある土曜日、待ち合わせ場所には雅和と見知らぬもうひとり。
「えーっと…な、そろそろおまえらには紹介してもいいかと思ってさ」
どこか照れくさそうに赤くなりながらそんなことを言う雅和に、特別な相手なのだと気付いたのはもちろん僕だけじゃなくて彼もだ。
「俺のこと、どういう人間か判ってくれたと思うからさ…こいつ、俺の幼なじみで恋人」
そう紹介された彼はまだ幼さの残る顔立ちで、真赤になりながらペコリと頭を下げた。
「今年受験なんだけど、俺たちとおなじとこ受けるっていうから……。合格したら先輩と後輩だし」
やはり照れくさそうに、なんだか言い訳でもするような雅和に、僕は思わず笑ってしまった。
「はじめまして。僕は白崎英里、よろしくね」
「俺は黒橋瑛紀。よろしく」
「よろしくお願いします。羽島瑞歩(はしま みずほ)です」
膝に額が付くんじゃないかってくらい腰を折る彼に、やっぱり僕たちは笑ってしまう。
「んで…な、今日はこいつに受験対策用の参考書を選んでやる約束なんだよ」
「参考書かぁ…だったらあそこの……」
「俺たちのことは気にしなくていいから。2人でゆっくり行くといい」
僕の言葉を遮るように突然言い出す彼に驚けば、雅和は明らかに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そうか? 悪いな〜。んじゃお言葉に甘えて」
そうして彼を促し、そそくさと僕たちに背を向けようとする。
そんな雅和に彼は慌ててもう一度僕たちにペコリと頭を下げると、その後をついて歩き出した。
「なんだったわけ?」
「まあいいじゃないか。俺たちを信頼できる友人だと思ったから引き合わせたんだろう。この間からどうも何か言いたそうだとは思ってたが……」
人ごみに消えていく2人の姿を見送りながら、彼が笑う。
「この間から? 全然気付かなかった……」
どうやら彼は、そういうことには敏感らしい。もっとも、僕が鈍感すぎるのかもしれないけれど。
「どうする? 誘い出した張本人は優雅にデートに出かけたが…きみは帰るか?」
「ん〜…せっかく出てきたのに帰るのももったいないし。黒橋は? どうする?」
「ひとりなら帰ろうかとも思ったが」
「んじゃさ、どこか行こうか。って言っても、限られるけど」
「行きたいところでも?」
「特にここって言うのはないけど……」
「じゃあこの先の公園はどうだ? 今日は天気もいいし、広い公園だから散歩するだけでもいい運動になりそうだ」
そんなふうに誘ってくれたことが意外で、でも嬉しくて、僕は笑顔で頷いた。

住宅街を少し外れた先にある大きな公園。
そばを通りかかることはあっても、中に入るのは初めてだ。
「うわ、本当に広いな〜。初めて来たんだ、僕」
広大な芝生の広場が広がり、遊歩道も完備されている。ところどころに設えられたベンチは広くてゆったりとしていて、遊歩道脇に植えられた大樹の枝からは木漏れ日が優しく降り注いでいた。
「この街へ越してきて、一番初めに来たのがこの公園だった。どうしてだろうな、初めてのはずなのになんだか妙に懐かしくて……」
「前に住んでたところにも同じような公園があったんじゃないの?」
「そうかもしれないな。俺の父親は転勤組で…小さな頃からひとところに腰を落ち着けることがなかったから」
遊歩道をなんとなくゆっくりと歩きながら、突然彼がそんなことを話し出す。
「母親は、家族は一緒にいるのが当たり前って考えの持ち主で、どんなところへでも父親について行った。中学までは俺も仕方ないと思ってたんだが、まさか高校生になってまでつき合わされるとは正直思ってなかったから驚いた」
小さく笑う彼に、僕はまたドキンと胸が高鳴る。
「だけど…ちゃんと一緒に来たんだ」
ドキドキする胸の内を悟られないように、僕は必死で平静を装って呟く。
「泣き落とされたっていうのか…まあ実際、まだまだ俺も親の脛を齧ってる身分だし。一人暮らしをするにしても、何もかも自分で賄えるわけじゃないから…両親を泣かせてまで一人で残る理由もなかったっていうのが本音だな」
そこまでを言って、彼はハッとしたように苦笑をもらす。
「すまない…こんな話なんて聞いても仕方なかっただろう」
「そんなこと……」
慌てて首を振った僕に、彼はどこかホッとしたような笑み。
「……僕は逆に、生まれてこの方この街から一歩も出たことがないから、少しだけきみが羨ましい気もするな」
地元の小さな会社に勤める父は、おおよそ転勤などという言葉には縁がない。
母親もこの街の出身で、一度は県外に出たこともあるらしいけれど、やはりここが一番だと戻ってきたのだといつだったか聞いた。
そして僕もきっと、この街でずっと暮らしていくんだろうと…なんとなくそんなことを思っていた。
「ここはいい所だ。俺は出来るならずっと、ここで暮らして行きたいと思う」
夏近い風を受けながら、彼がポツリと呟く。
「きみは、県外を目指すのか?」
それはきっと進学先を指しているのだろうと感じ、僕は迷いながら空を見上げる。
「両親は、僕の好きなところへ行けばいいって言ってくれてる。だけど肝心の僕が、何を目指して何を求めて受験したらいいのか迷ってるから……」
「将来の夢を明確に持ってる高校生なんて、そうはいないだろう」
彼が小さく笑う。
「うん……。きみは?」
「俺は…そうだな、きみと同じだ。まだ自分が何をしたいのか見つけられないままだから……」
僕と同じように空を見上げる彼の横顔に、またドキドキと胸が高鳴っていく。
いつだって雅和と3人で、こんなふうに2人きりの時間を過ごしたことなんてなかったから。
僕はこの瞬間まで、自分が彼に惹かれているなんて気付きもしなかった。
「残り1年で、まずはそれを探さないとな」
ゆっくりと視線を下ろした彼の瞳が、穏やかに僕を見つめてくる。
「……僕も、そうかな」
赤くなる頬が恥ずかしくて、俯くように視線をそらした。
そんな僕の目の前に差し出された彼の手。
「え?」
「これからも、よろしく」
思わず顔を上げれば、優しい笑みでそんなことを言われた。
「……僕のほうこそ、よろしく」
そっとそっと重ね合わせた手の温もりが優しくて、少しだけ力のこもるその手が嬉しくて。
僕も、少しだけ強く彼の手を握り返した。




受け継がれる記憶は、いつも俺の心を苛んだ。
「…っ痛」
左半身を駆ける悲痛な痛みは、自分だけが負わされた罪の刻印を嘆くもの。
「もういいだろう……。彼の幸せを望んだのは、おまえ自身じゃないか……」
禁忌の愛。
そうと知っていても、求め合わずにはいられなかったのなら。
「なぜ今になって、それを嘆く……?」
答えのない自問自答。
自分であり、自分でない者へと繰り返す問いかけ。
焼かれるようなこの半身の痛みが、彼を愛した証であるなら。
彼に愛された証であるなら。
「後悔するなら、なぜ愛した……?」
苦しげに紡ぎだした言葉と共に、痛みは嘘のように消え去った。
ホッと息を吐き、鏡の前にさらす半身。
赤く焼け爛れたように浮かび上がる醜い痣は、罪人(つみびと)の刻印。
「こんなものを…彼に負わせる気か……?」

今でもはっきりと思い出す。
夜目にも浮き立つ白い肌、しなやかな細い肢体。
神の寵愛を受けたかのようなその完璧な美しさに感動し、だが、その美しさを絶対に許せないと思ってしまう。

「違う……!」
鏡の中の自分に激しく首を振る。
「俺は、そんなこと望んじゃいない。こんな醜い証を…彼に刻みたくなどない……」
再び甦る激しい痛み。
それはまるで、俺に嘘をつくなと責め立てているかのように。
「俺は…おまえとは違う。違うんだ!」
振り切るように激しく首を振れば、その瞬間に痛みも醜い痣も消え去った。
「……愛したことを、後悔なんてしない……」
自分に言い聞かせるように呟き、鏡の前にさらしたままの肌をシャツで覆い隠して窓辺に寄った。
初めて彼を見たあの瞬間に分かった。
だが彼は、俺のように記憶を受け継いではいない。
知らないままでいられるなら、そのほうがいい。
「英里……」
初めてその名を声にすれば、温かな愛しさが胸の中に広がっていく。
だが俺からこの思いを告げることはできない。
あの頃のように、この身に罪を負うことはもうないのだろうが……
遠い空の向こう、さっき別れたばかりの彼を思いながらしばらくぼんやりとした時間が過ぎていった。




もう何度も読み返した祖父の日記。
彼と会った日は、どうしてか無性に読みたくなる。
「これって…本当にじいちゃんが書いたのかな……」
だとするなら、祖母以外の誰かと激しい恋をしていたということに他ならない。
しかもその相手は、きっと彼によく似た…男性と。
だからって、彼に惹かれている僕が何かを言えるわけじゃないし、何か言おうにも祖父はもういない。
何も知らないだろう祖母や両親に、この日記の存在自体を知らせる気もない。
「生きてるうちに聞きたかったな…じいちゃんの話」
まるで物語のように綴られていくその日記を読み追いながら、ふとそんな呟きがもれた。
禁忌と知っても、それでも相手を求めた強い思い。
ただ一途に、自分のすべてを捧げるかのように。
「でも……」
この恋の終わりはどうなったんだろうか。
僕はいつもそれが知りたくてたまらない。
『教えてやろうか』
ふと、風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。
「え?」
『おまえの知りたがっているその恋の行方、2人がどんな結末を迎えたのか教えてやろうか?』
今度はもっとはっきりと、まるで頭の中に響いてくるように聞こえてくる声。
「誰?」
『私か? そうだな…おまえが恋しがるもうひとりの男とでも言っておこうか』
どこか面白そうな笑みを含んだ声に、カッと全身が熱くなるのを感じた。
「僕が恋しがるもうひとりって…そんな相手……」
『いるだろう? 黒橋瑛紀。私は奴の分身だ』
その言葉に心底驚いた。
「分身? ってどういうこと!?」
『……そうか、おまえには記憶が受け継がれていないのか。まあ、覚えていれば逆に忘れてしまいたいと思うだろうがな』
どこか恨みがましい口調に、僕は平静を保つために小さく深呼吸を繰り返す。
「あなたが言う記憶…が受け継がれていたのはきっと、僕の祖父だと思う」
開かれたままのページに視線を落とし、僕は自分を奮い立たせるように拳を握り締める。
「教えて。ここに書かれた2人の恋の行方を、僕に聞くことが許されてるなら」
『……いいだろう。ただし、後悔しても私は知らないぞ』
それほどに辛い恋だったのだろうか?
僕はもう一度拳を握り直し、目を閉じて呼吸を整えて気持ちを落ち着ける。
「いいよ。たとえ後悔しても…自分で決めたことだから」
『なかなか根性の座った奴だな。分かった、そのまま目を閉じて、私について来い』
言われたとおりに目を閉じて、意識を集中させていく。
ゆっくりと体中が浮遊していくような感覚と、目の前に広がる薄靄のかかった世界。
『遠い遠い昔…ここは天上界と呼ばれていた……』
うっすらと開けていく視界。その先に広がるのは、この世界となんら変わることはない街の風景。
その中で、僕は彼によく似た青年を見つけた。
そしてその隣に並ぶのは、写真だけでしか知らない若い頃の祖父によく似た青年。
『クロエと、ミハク。おまえの祖父が、記憶を受け継いだ者と…私自身だ』
静かな声に思わず視線を向ければ、まるでそこに彼がいるのかと思った。
『同性愛が禁じられていたわけじゃない。ただあの2人には…互いに、決められた許婚者がいた。この世界で、婚を結んだ相手は絶対だ。たとえそれが己の望んだものではなくても』
「あの2人は…互いに決まった人がいたのに、愛し合ったっていうこと?」
『そうだ』
「解消することはできなかったの?」
『……できていたなら、こんな罰を負うこともなかっただろうに……』
「罰?」
でも僕の問いに対する彼の答えはない。
『何を見ても、何を聞いても決して動揺するな。帰れなくなるぞ』
真剣な彼の声に、僕は一瞬ゾクリと背筋が震えた。
『見たくなければ目を閉じろ。ただし、おまえの欲しいものは二度と手に入らない』
「……わかった」
グッと拳を握り締め、彼の言葉を反芻する。
目をそらしたくなるほどに辛い恋だったのだろうか。だからその記憶を受け継いだという祖父は、あんなに深い後悔と懺悔を刻み付けて行ったのだろうか。
『……おまえは、瑛紀が好きか?』
突然そんなことを聞いてくる彼に、僕は驚いて何も答えられない。
「な、なにを……」
『答えは今すぐじゃなくていい。あの2人の恋の行方を見届けた後、もう一度聞く』
真剣なその瞳はどこか縋るようで。
そのままそらされていく視線を追えば、仲睦まじく連れだって歩く2人の姿。
幸せな恋人同士そのものの2人のその後に起きる真実を目の当たりにしたとき、僕は祖父がなぜあんなにも深い後悔を残していたのかを、思い知った。





長い夢を見ていた気がする。
溢れる涙が止まらない。
『さっきの答えを聞かせてくれ』
静かな彼の口調に、僕は涙を拭って顔を上げた。
「……好きだよ」
今ならはっきりとそう言える。
僕は祖父からその記憶を受け継いだわけじゃないから、この気持ちは僕自身のものだ。
『私と瑛紀は一心同体。……この意味が分かって言っているのか?』
「もちろんだよ」
僕の返事に、彼の表情が驚きに揺れる。
「僕にはミハクさんの記憶は受け継がれていないから、本当のところは分からないけど…祖父の日記には、ただただあなたへの後悔と懺悔が綴られていた。あなた一人に背負わせてしまった罰を、できることなら自分も受けたいって」
僕は、机の上に広げたままの祖父の日記を彼に差し出した。
「これをあなたにあげる。きっとこれは、ミハクさんの想いだから」
『…………』
「受け取れないなら、黒橋に渡しておけばいいのかな」
僕の言葉に、彼は小さく頷く。
「じゃあ今から行ってもいい? 黒橋の家知らないから、案内して欲しいんだけど」
『……変わった奴だな、おまえは』
「そうかな。ただ…あなたの思いが早く昇華されればいいのにって、そう思っただけ」
『私の?』
「うん。だって辛いでしょう? いつまでもそんな思いを抱えてたら」
今ならなんとなく、なぜ祖父があんなふうにこの日記帳を置いていったのか分かるような気がする。
「僕の祖父はね、すごく几帳面な人だったんだ。いつだって何もかもがきちんと片付いていないと気が済まないような人。それなのに、この日記だけが置き去りになってて……」
あの日、僕が屋根裏部屋を訪れたのはきっと偶然なんかじゃなかったんだろう。
生前の祖父は、あの部屋に誰も近づけなかったとあとで祖母から聞いた。
幼い頃の僕だけが、唯一祖父に許されて足を踏み入れたのだと。
「きっとこれを、あなたに渡すために…ミハクさんの思いを、あなたに伝えるためにだったんじゃないかなって思うんだ」
僕の言葉に、彼は少しだけ切なげに表情を揺らす。
「善は急げ。黒橋、いるかな」
『……ああ』
その返事に後押しされるよう、僕は急いで部屋を出た。



チャイムの音に、こんな時間の訪問者に用はないと無視を決め込もうとした時。
それまで気配を消していたあいつがまた現われた。
『開けてやってくれ。俺が連れてきた』
「誰だ?」
『……おまえが今、一番会いたい奴さ』
まさか、と思った。
慌てて部屋を飛び出して玄関のドアを開ければ、驚いたように俺を見つめてくる白崎の表情が柔らかく微笑む。
「突然ごめん。上がらせてもらってもいいかな」
「……どうして、家へ?」
「ん〜なんて説明したらいいのかな。クロエさん?にこれを渡すために、ここまで案内してもらったんだ」
そう言って彼が差し出すのは、日記帳らしいノート。
「なんだかいろんなことが頭の中に入ってきて、本当はちょっとパニックになってるんだけどさ。僕が聞いてもいいことなら、全部を知りたいんだ」
なぜ彼があいつの存在を知っているのかと、いやそれ以前になぜあいつが彼の存在を知っているのか気になった。
「どうして、あいつを知ってる?」
「え、会ったからだよ。これを見つけてからずっと知りたかったことを教えてもらったんだ」
俺は差し出されたそれを受け取り、パラパラとページをめくってみた。
クロエと、彼が愛したミハクの幸せだった日々が書き綴られたそれは、あの日の悲劇だけを書き記すことはなく、その後は深い後悔と懺悔だけが綴られていた。
「余計なことを……。あいつに何を言われたか知らないが、きみには関係のないことだ」
「そんなことないよ!」
追い返そうとする俺に、彼は強い口調でそう言い切ってドアに手をかけて玄関の中へと入り込んでくる。
「……確かに僕は、記憶を受け継いではいないけど……」
彼はそこで一度言葉を切ると、まっすぐな瞳で俺を見つめてきた。
「クロエさんとミハクさんの思いを知って、そのままになんてできない」
「だからって俺たちにできることはない」
「じゃあずっときみは、クロエさんの痛みを自分のことのように抱えてこれからも生きていくの?」
必死に言葉を綴る彼に、どこまでを知っているのか聞きたくて聞けない。
「だから、クロエさんの思いがちゃんと昇華して…それできみがこれ以上苦しまなくてもすむなら。僕にできることがあるなら」
「―――だめだ」
「どうして!?」
「あいつの思いを昇華させるには……」
ミハクのあの白く美しい肌に、こんな醜い罪の証を刻めるわけなどない。それにもう、ミハクの記憶を受け継ぐ者はいないのだから。
「……いや。これはきみが知る必要はないことだ。俺とあいつの問題だから」
そう、俺は自分の身に負うこんな醜い痣を、彼に知られたくなどない。
『こいつは全部知っている。おまえと私が一心同体であることも、それ故におまえがその身に負う罪人の刻印もな』
それまでずっと気配を消していたクロエの声に、俺は絶望のようなものを感じずにはいられなかった。
「なぜ…知らせた……?」
『こいつが知りたがったからだ』
「嘘だ! おまえが……」
「ううん、クロエさんの言ってることが本当。知りたいって言ったのは僕だから」
静かな彼の声に、何故だと問う声が震えた。
「きみが好きだから」
そう答えた彼の頬を、涙が一筋伝う。
『……どうして僕だけを、置き去りにしていったの…クロエ』

胸の奥底から熱いものがこみ上げてくる。
今ここにいるのは僕なのだろうか? それともミハクさん?
『少しだけ、きみの体を貸して』
頭の中にそんな声が響いた瞬間、僕の意識は遠のいていた。

『ミハク……? なぜおまえが? こいつはおまえの記憶を継いでなどいないはずだ』
『同じ相手を愛した彼の体を、少し借りただけ。クロエ、僕はずっとずっときみに謝りたかった。同じ罪を犯して、同じだけの罰を受けなきゃならなかったのに…きみにだけ、すべてを背負わせてしまって……』
『…………』
『僕はどうすればいい? 何をすればきみに許しを請うことができるの? きみと同じ罰を受けたくても、僕にはもうそれをする器がない……』
悲しげに声を震わせ俯くミハクに、クロエは何も言えない。
『教えて…クロエ。きみが消えろと言うなら、僕は二度と輪廻を繰り返さないから』
静かなミハクの言葉に、クロエは驚いたようにその表情を揺らした。
天上人である自分たちが輪廻を断ち切るということは、その魂を闇に染まる地界へと封じることに他ならない。
『僕がこうして輪廻を繰り返してきたのは、ただきみに会いたかったから。きみに謝りたかったから。だから、それを果たせた今ならもう、未練はないよ』
『ミハク……? おまえ本気で、そんなことを?』
それにミハクは静かに頷く。
『……だめだ。そんなことさせない』
地界に封じられた天上人の魂は、魔物たちの手によってズタズタに切り裂かれ、弄ばれ、永劫の闇の中で苦しみながら消え去っていく。
『平気なんて言わない。だけど、きみがずっと抱えてきた苦しみと同じだけの罰を受けるならそれしかない』

「だめだ! そんなことをしたらこいつはもっと苦しむことになる」
叫んだのは彼だった。
「おまえは…本当はそんなこと望んじゃいないんだろう。ただ会いたかっただけなんだろう?」
意識の奥深いところで、彼の声が聞こえてくる。
「だから俺を…ここへ連れてきたんじゃないのか? やっと、彼を見つけたから」
彼…? ミハクさんのこと? それとも、その記憶を受け継いだ祖父のこと?
『違う、俺は……』
「もう一度思い出せよ、あの日のことを。どうしておまえだけが、あの刻印を負ったのか」
『……俺は……』

「―――僕でも、いい?」
深く沈められたはずの意識が急速に戻ってくる。
突然そんな言葉を発した僕を見つめる、彼の驚いた顔。
『だめだ英里。きみにそんな真似をさせるわけにはいかない』
ああ、今の僕はミハクさんと一体になっているんだね。彼がクロエさんと一体になっているように。
「違うよ…あなたのためじゃない。僕は、彼の痛みを共有したいだけ」
「白崎……?」
「彼が好きなんだ。だから、どんな形にしろ彼が苦しみから解放されるなら……」
僕がミハクさんの代わりにその罰を受けることで、クロエさんの思いが昇華されるなら。
『こいつがそう言うなら、やってもらおうじゃないか』
「クロエ!? おまえ何を…彼には関係ないと言っているだろう! 白崎、きみも……」
「方法を教えて。どうしたら僕が代わりになれるのか」
『だめだよ英里。きみにそんなことさせられない』
彼とミハクさんの反対を振り切るように、僕はただまっすぐにクロエさんを見つめた。
『簡単なことだ。おまえたちが抱き合えばいい』
でもその返事に、僕は一瞬思考が固まった。
「え…? 抱き合うって、え…それって、その……」
『分からないほど初心なガキでもないだろう?』
意地悪く笑うクロエさんに、僕はカーッと頬が熱くなるのを感じた。
「俺は嫌だぞ。絶対にそんなことしない」
『おまえが嫌なら俺がするさ。おまえは意識を閉じてただ終わるのを待ってればいい』
そんなクロエさんの言葉に、彼が苦々しく唇をかむ。
『やめてクロエ! 英里も考え直して』
悲痛なミハクさんの叫びはまるで、クロエさんが僕を抱くのを嫌がっているようにも聞こえて……
「……じゃあ、あなたにこの体を貸すから。もう一度、あなたがクロエさんに愛されて」
『英里!?』
「僕は…平気だから。大丈夫だから」
笑ったつもりだった。
「―――泣きながらそんなことを言うな」
突然引き寄せられた彼の腕の中、くぐもった声がそんなことを言うのに驚けば、彼の胸元に広がっていく涙の染み。
『やっぱりだめだよ、英里。きみがそこまで犠牲になることじゃない』
「ミハクさん……」
『これはクロエと僕の問題。最初からきみたちを巻き込んでしまったことがいけなかったんだ。ごめんね』
「「…………」」
悲しげなミハクさんの微笑みに、彼も僕も何も言えない。
『僕が消えるから…クロエ。それで許して……』
『―――だめだ』
グッと硬く握られたクロエさんの拳が微かに震えている。
「少し時間をくれないか」
そんな2人の間に割って入ったのは彼だった。
「俺はもう、こいつと一生を共にしていく覚悟は出来ている。白崎、もうしばらく彼の存在をきみの中に住まわせてもらえないか?」
突然むけられる問いに、僕はただ黙って頷くしかできない。
「……俺は、白崎が好きだ。だけどおまえたちのために、彼を抱くなんてことは絶対に出来ない」
さっきよりも強い力で抱きしめられながら聞く、彼からの告白に胸が高鳴った。
『俺はそれでいい』
どこか面白そうなクロエさんの声。
『……英里が、迷惑じゃないなら……』
申し訳なさそうなミハクさんの声。
「じゃあこれで決まりだ。……すまなかった、白崎。結果的にきみを巻き込むことになってしまって……」
つい今しがたの告白なんてなかったような彼に、だけど僕は恥ずかしくて顔を上げられないまま、首を振る。
「あの…じゃあ僕、これで。さよなら」
思い返せばすごくとんでもないことをいくつも口走っていたんだって気付いた。
慌てて背を向けて玄関を出ようとした僕の腕を、彼の強い力が引き止める。
「……いつか、きみを……」
「黒橋……?」
「好きだよ、英里」
優しい笑みと、そっとそっと触れた唇の柔らかさ。
「気をつけて」
緩む手の力にハッと我に返った僕は、ただただ恥ずかしくて一目散に駆け出した。





次の日も、その次の日も彼は何事もなかったように僕に笑いかけてくれた。
ひとりだけ恥ずかしがる僕に雅和は何か言いたそうだったけど、絶対拒否の姿勢を貫いていたからなのか、根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。
そうしていつの間にか迎えた夏休み。
あれからも3人で出かけることは時々あった。
時には雅和の恋人も加わって、4人で出かけることも。
僕はもうすっかりミハクさんと一心同体の生活に慣れてしまって、ずっとこのままでもいいかな…なんて暢気なことまで考え始めていた。
そして夏休みも後半に入ったある日。
「旅行をしないか?」
彼が突然そんな誘いをかけてきた。
「旅行?」
「ああ。そんなに遠い場所じゃないんだが、きみと2人で行きたくて」
「…………」
一応、僕たちは恋人同士って間柄で。
キスはもう何度もしたし、デートって言えるほどのものじゃないけど、2人で出かけることだってよくあった。
「うん、行く」
そう返事をして、その瞬間に僕はハッと思い出した。
彼はきっと、僕みたいにこのままでいいなんて能天気なことは考えていなかったはずだ。
時間が欲しいと言った彼が、心を決めたのだろうか? だから僕を誘ってくれたんだろうか?
『そうじゃないよ。彼は絶対に僕たちのためにきみを抱くようなことはしない。だからね、彼自身がきみを欲しいと思ってるんだ』
心の中から響いてくるミハクさんの声。
「そう…かな。でもそうなら、すごく嬉しい……」
『愛する人と結ばれる瞬間は至福だよ。僕もそうだった。クロエに抱かれて…もう死んでもいいって思えるくらい、幸せだった』
一生触れ合うことは叶わないだろうと思っていたから…そう呟くミハクさんが悲しくて、僕はグッと自分の胸元に手を合わせる。
『今までいろいろとありがとう、英里。きみと過ごせて楽しかった』
「ミハクさん……」
『彼と、ずっと幸せにね』
「……うん。ありがとう……」

『やっと決心が付いたってわけか? あいつを旅行に誘ったってことは』
「……おまえのためじゃない」
『なるほど、我慢の限界か』
面白そうに笑うこいつを睨みつけたところでどうしようもない。
窓の外へ視線を流し、彼を思う。
自分の辛抱のなさに嫌気がさした。日に日に募っていく彼への思いを封じていられない自分が、情けなかった。
『人間なんてそんなものだ。惚れた相手を前にして、いつまでも我慢なんてできるもんじゃない』
「おまえもそうだったのか?」
俺の問いに、こいつは遠い目をして諦めたように頷いた。
『触れなければよかったんだ、あいつに。思い合うだけなら、罪になどならなかった。心だけをあいつの下へ置いて、偽りの生活をする自信はあったのに……』
左半身の刻印が疼く。それはまるで、こいつの後悔をあざ笑うかのように。
『だが本当にいいのか? あいつに、おまえと同じその醜い痣を刻み付けることになるんだぞ』
ただそれだけが俺の決心を鈍らせる。
彼は何もかもを受け入れると言ってくれた。
その目でこの醜い痣を見ても尚、俺を好きだと言ってくれた。
「受け入れてくれる、彼は。俺はそう信じている」
『……土壇場で逃げられないことを祈っててやるよ』
そんな憎まれ口をたたくこいつに、だが怒りの感情は湧いてこない。すべては明日。
「英里……」
遠い空の向こう、俺は愛しい彼へと思いを向けた。


旅行というにはささやかで近すぎる場所だったけれど、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
「海が見える…すごいな。明日は浜に下りてみようよ」
ホテルの窓から見える景色にはしゃぐ彼を、そっとそっと抱きしめる。
「……シャワー、浴びさせて。汗臭いから」
「ああ」
そっと抱きしめた腕を開放すると、彼は恥ずかしそうに俯いて慌てて浴室へと身を隠した。
熱いシャワーを浴びながら、僕は治まりのつかない心臓を持て余す。
だって恥ずかしい…それに、怖い。そういう知識だけはあっても、経験するのは初めてだから。
彼は、どうなんだろう……僕以外の誰かを、抱いたことがあるのかな……
少しだけ、胸がツキンと痛んだ。
だってそれは、彼が僕以外の誰かを愛したことがあるっていうことだから。
それを振り切るように少しシャワーの湯量を多くして全身に浴び、相変わらずやかましい心臓を宥めるように深呼吸をしてから、僕はゆっくりと浴室を出た。
窓際のベッドに腰掛けて外を見つめる彼の横顔に、またドキンと胸が高鳴る。
「俺もシャワーを浴びてくる」
僕の姿に気付いた彼が小さく笑って立ち上がり、僕の隣を通り過ぎて浴室へと入っていく。
僕は彼が座っていた場所に腰を下ろし、ベッドサイドの小さなテーブルに置かれた缶コーヒーを持ち上げた。
少しだけ中身の残ったそれを、一気に飲み干す。
「苦い……」
デートの時、いつも彼はブラックのコーヒーを飲んでいた。
僕は砂糖とミルクがたっぷりの甘いカフェ・オレが定番。
初めてブラックコーヒーの苦味を知ったのは、彼の部屋で過ごした時。味見をさせて欲しいと言った僕に彼がくれたのは、優しいキスだった。
「……大丈夫。怖くなんかないから」
自分に言い聞かせるように呟いた時、微かな音と共に彼が浴室から出てきた。
「明かりは、消したほうがいいだろう?」
「……うん」
闇の落ちた部屋の中、窓から差し込む月明かりだけがほんのりと彼の姿を照らし出す。
微かに軋んだベッドの音。
優しくて、少しだけ苦いキス。
滑らかな白い肌に唇を落とせば、掠れたような声が微かにもれる。
ほんのりと薄紅色に上気するこの美しい体に、本当にこんな醜い痣を刻み付けてしまってもいいのだろうか。
そんな葛藤がなかったわけじゃない。
でもそれよりも、彼が欲しかった。
「愛している、英里」
「僕も…愛してる。瑛紀」
恥ずかしそうな笑みを浮かべ、俺の与えるすべてを受け入れようとしてくれる彼が愛しくてたまらなかった。
激しく撓るその背をかき抱き、声にならない悲鳴をあげる彼の苦痛が少しでも和らぐように、そらされた胸元へと愛撫を落とす。
「…ああっ、えい、き……」
強い力で抱き返され、ビクリと震えた彼の体を必死で受け止めた。
そして俺もまた彼の奥深くに欲望を解き放ち、その瞬間に彼が嬉しそうに微笑んで涙を落とす。
「英里……」
「ひとつになれたね…瑛紀」
そのまま意識を遠ざけた彼を抱きしめ、もう一度その唇にキスを贈る。
薄紅色に染まったまま、美しいままの彼の肌にホッとしながら。

「……遠雷?」
彼がふと呟いて目を覚ましたのは、そろそろ真夜中になろうかという頃。
「ああ。さっきから聞こえ出した」
「……なんだろう…この感じ」
「英里?」
彼はベッドにゆっくりと身を起こし、窓の外へと視線を向ける。
『あの日と同じだな』
クロエの呟き。
どんどん近づいてくる遠雷の音。
熱く燃えるような痛みを伴う半身の痣。
「くっ…英里、どうした?」
操られるように窓辺へと向かう彼に伸ばした腕はだが、無情にも彼に触れることなく急激な痛みに飲み込まれ動かない。
『僕は、眠っていた……』
ミハクの呟き。
『きみに愛されて、その喜びだけに満たされて…何も知らずに、眠り続けていた……』
『―――ああ、そうだ。おまえは……』
目覚めた時、クロエはいなかった。
その温もりと、ただ僕を愛してくれた証だけを残して、消えてしまった。
『ごめんね…英里。僕のせいで、きみを傷つけてしまう……』
「本当にそれでいいのか!? クロエ!」
そう叫んだ瞬間、まるで金縛りにあっていたかのように動けなかった全身の緊張が解けていた。
「来ないで瑛紀!」
叫んだのは彼だった。まるで、俺の腕を拒むかのように。
そして、一瞬の閃光が彼を包み込み……
「―――英里!」
窓辺に蹲る彼の、無残に焼け爛れた右半身。
「大丈夫…痛くないから……」
うっすらと笑みを浮かべる彼に、涙が溢れた。
その体をしっかりと抱きしめ、やはり触れるんじゃなかったと後悔が押し寄せてくる。
「これで満足か、クロエ。本当におまえは、こんなことを望んでいたのか!?」
取り戻した太古の記憶。俺の中に深く埋められた、クロエ自身も忘れているだろうあの日の真実。
「そうじゃないだろう? あの日おまえは、自分を犠牲にしてミハクを庇ったんだから」
「え……?」
『違う、私は……』
望みを果たしたはずなのに、なぜこんなにも心が重い?
その美しい肌に刻まれた醜い刻印に、後悔が押し寄せる?
「違わない。おまえは、本当ならミハクが受けるべきだった罰までを、自分の体に刻み込んだんだ」
「……どういう、こと……?」
彼の体を抱き上げ、そっとベッドに横たえた。
縋るような視線を向けてくるのは彼なのかそれとも、ミハクなのか。
「教えて…瑛紀」
『教えて…クロエ』
遡る記憶。遠い遠いあの日。

もう戻れないところまで、心も体も高まっていた。
見つめあうだけの恋、思いを伝え合うだけの恋じゃもう物足りないほどに。
『どんな罰を受けても、後悔はしないよ』
静かに告げたのは、ミハクだった。
『……ああ、俺もだ』
そう答え、初めて交わした淡いキス。
やっと、互いの熱を素肌に感じあえる。
そんな喜びが全身を満たし、すべてを忘れるように互いを貪りあった。
その肌に溺れ、熱い嬌声に酔いしれ、溶け合うように幾度も身を重ねた。
やがて意識を手放したミハクを抱きしめ、遠雷の音を聞いたのはそれからすぐ。
覚悟はできていた。
『……幸せに。ミハク』
そっとその唇に最後のキスを落とせば、嬉しそうに微笑んでくれるそれだけでもう十分だった。
その直後、全身を襲った激しい熱さと痛み。
『くうっ…させない。ミハクには、傷ひとつ付けさせない』
安らかに眠るままのその体を、包み込むように抱きしめた。
守り抜くことができるなら…この命など、惜しくはない。
『ぐっ……』
さっきよりも強烈な痛みに全身を焼かれ、ともすれば手放してしまいそうになる意識を必死で繋ぎとめた。
左半身を埋め尽くす醜いこの痣が、罪の証。
もうここにはいられない…この世界で生きていくことは出来ない。
『さよならだ……』
それでも、ミハクを傷付けずにすんだことに安堵したはずだったのに……

ぽろぽろと涙を落とすのは、彼なのかミハクなのか。
「英里……」
ベッドに起き上がった彼をそっと抱きしめれば、強い力で縋り付いてきた。
「永い永い時の中で、輪廻を繰り返しながら、もう一度ミハクに会いたい気持ちがどこかで歪んでしまったんだ」
「うん……」
「すまない…俺はきみを、守ってやれなかった……」
それに彼は小さく首を振る。
「これで僕も同じ。ね、こうして抱き合うとひとつになるよ」
互いの半身に刻まれた醜い痣をさし、彼はそう言って笑う。
「ねえクロエさん、ミハクさんを抱きしめてあげて」
「英里?」
「だってさっきからずっと、ミハクさんの泣き声しか聞こえないんだ。自分を責めてるミハクさんを、安心させてあげて欲しいんだ」
「…………」
『……本当に、おまえは変わった奴だな』
「いいでしょう? 瑛紀」
「……仕方ないな」
渋々答える俺に、彼は嬉しそうに微笑んで目を閉じる。
「さっさと英里を返せよ」
『分かってるさ』
忌々しそうに答えるこいつが、それでもどこか嬉しそうな気がして…俺は仕方なく、自分の体をこいつに明け渡してやった。

『ミハク……』
どれほどぶりに触れるのかと思えば、ガラにもなく全身が震えた。
『ごめんなさい、クロエ…英里…僕だけが何も知らないまま、今までずっと……』
後悔に打ち震える切ない声。
震えるその体を、思いきり抱きしめた。
『―――愛してる、ミハク。どんなに時が経とうと、おまえを忘れられなかった』
『クロエ…僕を、許してくれるの? きみにそんなひどい仕打ちをしてしまった僕を…まだ、愛してくれるの?』
『ああ、愛してる。おまえだけを、この先もずっと』
『クロエ……。僕も、愛してる。きみだけをずっとずっと、愛してる……』
そのとき、眩い閃光が辺りを照らし出す。
『その身に罪人の刻印を負ったまま、共に生きるがよい。二度と過ちを繰り返さぬように』
『殿上人……? なぜ、ここに?』
『……罪を犯したものは、罰を受けねばならん。あの時おまえがミハクを庇わなければ、おまえたちの罪はもう赦されていたものを。遠回りをしたな、クロエ』
『え……?』
『この者たちの痣はすぐに癒える。安心しろ。せめてもの情けだ』
『……ありがとうございます……』
そしてゆっくりと閃光は消え、辺りにはまた静寂が訪れた。


「……あれ?」
目が覚めたのは、眩い朝の光と優しい彼の腕の中。
「おはよう、英里」
「おはよう…ねえ、昨夜のことって……」
まるで長い長い夢を見ていたような気がする。
ミハクさんの気配も、もう感じられない。
「……どこにいても、2人なら幸せだろう」
そんな彼の言葉に、あれが夢じゃなかったんだとなんだかホッとした。
「うん…そうだね」
彼と一緒にいられるこの時間が、僕にとって一番の幸せであるように。
「でもちょっとだけ寂しいかな。せっかくミハクさんと仲良くなれたのに」
「俺は清々した」
憤ったように言う彼に思わず笑えば、ふと伸びてきた指先が僕の右肩に触れる。
「消えてよかった……」
「え? あ…本当だ。そういえば瑛紀、きみも……」
確かに刻まれていたはずの痣が、きれいさっぱり消えてしまっていた。
これでもう本当に、僕たちと彼らを繋ぐものはなくなってしまった。
「あ、日記……」
祖父が残していったあの日記帳のことを思い出し、僕は慌てて荷物をあさる。
「あった。そうだよね、夢じゃなかった……」
でもそれは、僕の手の中でサラサラと砂のように崩れて行ってしまう。
そしてそれは風にさらわれ、跡形もなく消えていく。
「いいじゃないか、形として残らなくても。きみと俺の心の中には、クロエとミハクの存在がちゃんと生きてるんだから」
思わず窓辺に駆け寄った僕を、彼が背中からそっと抱きしめてくれた。
「いつかまた…どこかで会えるさ」
「……僕たちのこと、覚えててくれるよね」
「あれだけ迷惑をかけられたんだ。覚えてなかったら許せないな」
おどけたように笑いながらそう言う彼に、僕も思わず笑ってしまう。
「さあ、そろそろチェックアウトの時間だ。今日は浜へ下りるんだっただろう?
 さっさと支度しよう」
「うん」
だけどその前に。
僕は振り向きながら少しだけ背伸びをして、彼の唇にそっと触れた。
「えへへ…モーニングキスっていうの、一度やってみたかったから」
そんな僕に彼はどこか照れくさそうに微笑んで、僕が仕掛けたよりも何倍も甘い甘いキスをくれた。





年が明けて、春が来て、雅和の恋人・瑞歩くんが新入生として僕たちの後輩になった夏休み。
今度は4人で、思い出の海へとやってきた。
「おおお〜いいとこじゃねぇ? あんま人もいないし。さっさとホテルに荷物置いて泳ごうぜ」
子供のように一番はしゃぐ雅和に笑いながら、僕たちはそれぞれの部屋に荷物を置いて、ホテルのプライベートビーチへと下り立った。
「……雅和、それ…左肩のところ……」
「あん? あ〜これか、生まれつきあるんだよな。あれ、おまえ知らなかったっけ?」
「知らなかった。だってこんなふうに見ることないし」
「あはは、まあそりゃそうか」
豪快に笑いながら海へと走っていく雅和の後を、瑞歩くんが追いかけていく。
「…瑛紀、あれ……」
「ああ…俺も、そう思う」
瑞歩くんの右肩に刻まれた、雅和と同じ小さな痣。
「……こんな身近に、生まれ変わってくれてたなんて……」
「今度はずっと、幸せでいられるさ」
波打ち際、子供のようにはしゃぎまわる2人の肩に刻まれたのは、罪人の刻印じゃなくて。

生まれ変わった幸せな恋人同士の、愛の証。





●自己批評
『似非ファンタジー色の濃い(一応)学園物のつもり。純愛系…だと自分では思ってます。キャラの作りこみがイマイチだったのが反省点でしょうか……。
今回初参加させていただいたのですが、とにかくお題が難しかったです(>_<)
いいお勉強させていただきました。ありがとうございました。』

《如月 七月》



゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

『ルナティック』

著者:沖ナワスケ




「ウサギを拾ったの」
 友人は言った。僕はワインを飲みながら眉をあげて話の先を促した。
「すごくきれいなウサギ。かわいいの」
「どんなウサギなの?」
「真っ白いウサギ。おとなしくて、さみしがりやで……」
 彼女はふと視線をワイングラスにむけた。
「ちょうど、こんなような色の瞳をしているの」
 ワインは淡いオレンジ色の照明で、ルビーのような色に輝いていた。
「とってもきれいなの」
 にこりと彼女は笑うと、ワイングラスに手をのばした。僕は彼女の喉元をぼんやりと見つめた。

 彼女が帰ったあと、僕は食器やグラスを洗って片付け、我が家の一番奥にある部屋に行った。五畳ほどの小さな部屋には窓がたった一つだけある。その傍らには僕のお気に入りの望遠鏡が置いてある。僕は椅子に座ってその望遠鏡を覗く。すると世界はたちまち円の中に凝縮される。
 見えるのは或るマンションの一室のベランダだ。そこには誰もいないが、しかしカーテンの隙間に人影が見える。歳は十七、八くらいの少女だ。彼女はベランダの窓越しに座り込んでぼんやりと上を見上げている。何を見ているのかはわからない。僕はレンズをひねってピントを近づける。視界は彼女にズームインされる。するとその彼女の瞳までがはっきりと見えるまでになる。
 薄暗い空間にぼんやりとうかびあがる肌は病的なまでに白い。胸のあたりまで伸びた髪も色がすっかり抜け落ちている。そしてその中で一際目立つのは、さきほどからずっと何かを見つめている二つの瞳だった。その瞳は血の色と同じだった。
 僕はレンズ越しに彼女を見つめる。それ以上も以下もない。
 すると少女の傍らに女が現れ、スッと寄り添った。その女が少女の頭を撫でると、少女は女のほうにふりむいた。緋色の瞳が女をとらえ、それはスゥと細められる。女は少女の頭をゆっくりと撫でる。そしてそっと額に口付ける。少女の髪を愛撫していた手はゆるりと頬にのび、そして両目を包んだ。緋色の瞳は閉ざされる。
 僕はそれを眺める。

「ウサギは何か芸とかするの?」
 数日後、また彼女が食事に来たときに僕はたずねた。
「しないわよ」
「いまだに覚えてるんだけどね、僕が子供の頃、駅前に見せ物屋がいたんだよ。動物を使ってちょっとした芸をするんだ。サルとか、オウムとか、芸達者な動物がいてね、その中に輪くぐりをするウサギがいた」
「輪くぐり?」
「ちいさな輪っかをぴょんと飛んでくぐるんだよ。あと玉乗りもしたっけ。とにかく賢いウサギだったよ」
「私のウサギも、とっても良い子よ。私の言うことは何でもきくの」
 彼女はにこりと笑った。
「ねぇ、僕たち、またやり直せないかな?」
 彼女は微笑みを絶やさず、答えるかわりにワインを飲んだ。
「大事な人ができたんだね?」
「ええ。私がいないと、だめなの。ずっと一緒にいるって、約束もしたのよ」
「愛しているんだね」
「そうね、そうかも」
 彼女の微笑みは深くなった。細められた瞳は、淡いオレンジ色の照明を映して、温かな輝きを持っていた。僕はナイフを握り、鶏肉を切って彼女の皿に盛ってやった。
「幸せになれるように僕も祈っているよ」
「ありがとう」
 彼女が帰った後に皿を洗い、望遠鏡のレンズをのぞけばそこには白い少女がいる。そしてその傍らには女がいる。女は夜空を見上げる少女の緋目を、ひやりとしていそうな左手でそっとおさえ、右手では愛撫をする。やがてカーテンは閉ざされ、二人の姿は見えなくなる。僕はそれを眺める。
 まもなく満月だ。

 いつものようにレンズを覗くとそこには少女がいる。しかし女はいない。僕はそれを確かめて家を出た。歩いて五分ほどのところにあるマンションへ向かう。エレベーターは使わず、ゆっくりと階段を昇る。急ぐ必要はない。
 四階の、一番奥のドアの前まで来て僕は立ち止まる。鍵がかかっているのは確かめるまでもない。ずいぶん前にもらってそのままの合鍵をポケットから出し、鍵穴にさしてゆっくりとひねる。
 ドアを開けた先は薄暗かった。僕は注意深く足を進める。一番奥の部屋へ向かうと、そのベランダの傍らでぺたりとすわりこむ白い後姿があった。僕はゆっくりと静かに近寄る。
「やぁ、こんばんは。今日も、月を見ているのかい」
 僕のことに気付いたのか、彼女は視線をこちらへむけた。その瞳はレンズ越しに見えたそれよりもさらに紅い。色素の抜け落ちた髪や肌は月明かりによっていっそう透明さを増し、恐ろしくさえ思えた。
 その美しさに感動するし、その美しさを絶対に許せない。
 二つの緋目がこちらを見上げる。白く虚ろな表情の中でその瞳だけが唯一色を持っていて、窓からこぼれる月明かりにぼんやりとうかびあがっている。感情を表に出すわけでもなく、何を言うわけでもなく、ただ見つめてくるだけの彼女に同情し、愛しさを感じ、しかしそれはすぐに憎しみや嫉妬に変わった。
 ふと、机の上のペン立てに入れられたカッターが目に入った。背筋が粟立った。……いや、今はまだ駄目だ。僕はカッターから目をそらし、かわりにコンセントを探した。あれを仕掛けるのには、コンセントが一番いい。
「僕がここへ来たことは、ご主人様には内緒だよ」
 すると彼女はこくりと頷いた。僕は頭をなでてやった。
「話に聞いたとおりだ。君は、賢い子だね。ご褒美に、月をもっと近くで見れる所へ連れて行ってあげよう。満月の夜に、迎えにくるからね」
 少女はまた頷いた。
 その日から僕は望遠鏡を覗くのをやめ、かわりにイヤホンをつけた。イヤホンからは、女の喘ぎ声が聞こえる。何度も聞いたことがあるはずなのに、全く別のもののように思えた。緋目の少女の白い手が、女の身体をすべるのを想像する。その手に溺れる女を想像する。酷く甘い声は徐々に高まっていき、やがて静かになった。
 彼女は言っていた。私の言うことは、何でもきくの。とっても賢いウサギなのよ。

 一度満ちた月は再び欠け始めた。僕の前でワイングラスを揺らす友人はいつもとくらべて口数が少なく、疲れているようだった。
「ウサギは元気?」
「それが、いなくなってしまったの」
「それはまた、どうして?」
「わからない……帰ってきたら、いなかった」
 彼女はため息をまじえて言った。
「きっと、月に帰ってしまったんじゃないかな」
 僕は新しくあけたワインの入ったグラスをゆらした。薄暗い照明の中でわずかに光る。それはまるで、ウサギの目の色のように美しかった。
「元気を出して。今日の料理はどう? 結構がんばったんだよ、落ち込んでいる君のために」
「とってもおいしいわ。何の肉なの?」
「君が、とても愛していたものだよ」
 彼女はよくわからなかったのか、眉をひそめた。僕はそれに気付かないふりをして、テーブルの上に置かれた彼女の左手に自分の手をそえた。触れた肌は、レンズ越しで見るそれよりもずっと現実味があり、そして温かかった。





●自己批評
『ぬるくてごめんなさい。』

《沖ナワスケ》



゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

『フォニ』

著者:美知瑠(ミチル)




 世界は音で満たされています。
 悲しい音、嬉しい音、怖い音、優しい音……数え上げればきりがないくらい、沢山の音があります。
 あなたはどのような音を奏でたいのかしら。
 優しい音を奏でたいのなら、優しい人になりなさい。
 声という言の葉を名に持つこの楽器は必ずあなたのその思いに応えてくれるから。


 1つ音を奏でその音に思いをのせる。そうすると音が色を持つようになる。
 喜怒哀楽――同じ曲でものせる思いが変わると全く別の曲になってしまう。
 音に思いをのせ、音の世界に入り込む……音と1つになる……
「……はぁ……」
 1曲弾き終え――と言っても練習曲だけど――乱れた呼吸を整えるため深呼吸をした。
 時計を確認すると午後4時25分。生徒会からの呼び出しの内容は第一練習室に午後4時半だったからもう少し時間がある。
 そう思うと指が勝手に鍵盤を叩いていた。

 私の通う高校は『フォニ』という楽器の専門高。
 毎年12月24日――クリスマスイブに開催される音楽祭がこの高校の名物になっており、毎年沢山の人がやってくる。
 音楽祭と言ってもフォニのコンテストがある以外は他の高校の文化祭と殆ど変わらない。
 コンテストがあるので舞台を使った出し物はないけれど、仲のいい人達で屋台をだしたりしている。(10人学級で1学年2クラスだからか、クラスで何かをしようという事は滅多にない)
 フォニストにとって憧れの高校で、生徒は特にこの音楽祭に憧れて入学してきた人が多い。私もその一人。
 ……でも……今の私は周りから浮いている。
 入学してから約1ヶ月。コンテストは少なくても2人1組で参加する事が慣習になっていて、入学してから1ヶ月過ぎてパートナーが決まっていない人はあまりいない。私はその少ない一人で、今日はそのことで生徒会から呼び出しを受けたと思っている。

「……ふぅ…………えっ?」
 曲を弾き終え大きく息を吐いた瞬間、背後から拍手の音が聞こえ、反射的に振り返った。
「おどろかせてしまったかしら、ごめんなさいね」
「……萩原……先輩」
 そこにいたのは萩原先輩だった。
 私と萩原先輩は特に知り合いと言うわけではない。私の方が一方的に知っているだけ。
 ううん、萩原先輩のことを知らない生徒はこの学校にはいないと思う。
 だって、
「あら……やっぱり私の事、知っているのね」
「去年のコンテスト優勝者なのですから、知らない人なんて殆どいないと思いますよ」
「はぁ……私は知らないのに相手が私の事を知っている事にまだ慣れないわね。プロになるならそれが当たり前になるのだから、慣れなければいけないのだろうけど……」
 そう、萩原先輩は去年のコンテストの優勝者なのだ。
 私がこの高校に進学することを決めたのは、萩原先輩の演奏だった。
 萩原先輩の演奏を聞くまでの私は、フォニを演奏するのを止めようかとまで考えていた。
 その考えを変えるほど、萩原先輩の演奏は素晴しかった。
 学生でこれ程の演奏ができる人がいるんだ……その音の美しさに感動し、そしてその美しさを絶対に許せなかった。
 何故、私は観客席にいるのだろう。何故、私は舞台に立っていないのだろう。フォニの魅力の一つに演奏者と聴衆者が一つになれることがある。

『会場と一つになった』

 ライブなどでも時々耳にする言葉。
 でも、フォニの場合は一味違うんだ。言葉では上手く表現できないけど……あの感覚はフォニでしか味わえない。
 私はその感覚を与えられるのではなく、与える立場になりたかった。
 フォニスト全てがその感覚を与えられるわけではない。有名な『フォニスト』の中にも与えられない人もいる。いや、与えられない人の方が多いんだよね。

「今日、呼び出された理由はわかっているわよね?」
 練習室の中にあった椅子を私の向かいに置き、腰をかけそう言った。
「はい。音楽祭のパートナーの件……ですよね」 
「ええ。 あっ、勘違いしないでね。 まだパートナーが決まっていないことのお咎めではないから」
「違うのですか?」
 てっきりそうだと思っていた。
「この時期に決まらない人は毎年いるのよ。そんな人の為に毎年、生徒会が引き合いをしているの」
「引き合い……ですか」
「決まっていない人どおしで、相性のいい人がいないか生徒会を間に挟んで探していくの」
 フォニという楽器の音は奏でる人によって音が変わる。
 声が一人一人違うように、音が変わる。だから、イタリア語で声を意味する「フォニ」という名が付けられた。
 相性が悪いと不協和音を奏でることになってしまう。
 プロなら相性の悪い人とでもある一定のレベルの演奏をすることが求められるが、学生レベルでは中々そこまで辿り着かない。
 プロでも相性が悪い人と組んで演奏すると、その演奏から相性が悪いとわかってしまう。
「本来ならこれは先輩方がやることなんだけど、あなたは特別に私が受け持つことになったの」
 生徒会メンバーは副会長を除いて3年生と決まっている。
「どうしてですか?」
 萩原先輩もコンテストの練習で忙しいはず。
「実はねまだパートナーが決まってない2年生の半数が、あなたにパートナーになって欲しいと申し込んで断られた人なのよ」
 萩原先輩のその言葉に私はどう返したらいいのかわからず、俯くことしかできなかった。
「あなたを責めている訳ではないの。その人達全員があなたと組みたいから引き合わせてくれないかと、頼んできてね」
「……」
 萩原先輩が戸惑ったように言った言葉に唖然として何も言えなかった。
「こういう事って前代未聞でね。私が駆り出されたというわけ」
 その説明では何故、萩原先輩が駆り出されたのかわからないけど、
「取り合えず、練習曲1番から全部、通して弾いてみて」
 と、私が何かを言う前に言われたので、聞く事ができなかった。
「全部……ですか?」
「ええ、あなたの実力を知りたいからね」
 練習曲を全部弾くとなると時間がかかるけど、そう言われたらその言葉に従うしかない。
 フォニの練習曲は技術だけではなく、どれだけ音に思いをのせることができるのかを計る事ができる。
 音にのせる思いは多種多様……正の感情から負の感情まで、満遍なくのせて弾く。
「……はぁ……」
 練習曲を全部弾き終え、深呼吸をする。
「技術面は……1年生にしては高いわね。これなら下手な2年生より技術はある」
 萩原先輩は先ず私の演奏をそう評した。
「気になるのは……負の感情をのせるのが苦手みたいね。正の感情をのせるのは上手だけど」
 萩原先輩の指摘するとおり、私は負の感情を音にのせるのが苦手。
 その評を聞いて、何故、萩原先輩が駆り出されたのかがわかった。
 萩原先輩は聞き手をしても優秀なんだ。
「全体的に優しい音ね。母親の影響かしら?」
「……母を知っているのですか?」
 萩原先輩の言葉に思わずそう返した。
 でも、それは失言だった。だって、
「あなたの母親を知らないフォニストなんていないわよ。世界的に有名なフォニストなんだから」
 そう、私の母――正確には養母――は有名なフォニストなんだから。

 フォニは演奏できる人が限られている。
 こういう言い方は嫌いなんだけど、ある種の才能がないと音を鳴らすことすらできない。
 最近のフォニは技術の進歩のおかげで音を鳴らす事ができる人が増えているけど、それでもまだ少ない。
 だからか、フォニを弾けることを鼻にかけるフォニストは少なくない。
 この学校の生徒もそのような人が結構いる。
 私にパートナーになってくれないかと話を持ちかけてきた人の大半はそんな人。
 私の母が有名なフォニストだから、娘の私を通じて関係を持ちたいという魂胆が見え見えだった。

「私、養子なんですけどね」
「だからこそ、注目されてしまうんじゃない? 彼女は子どもができなかった。でも、養子をとって、その養子がフォニを弾けるとなれば、注目されるわよね。いい意味でも悪い意味でも」
 フォニストの世界で養子縁組は珍しいことではない。
 フォニは恐ろしくお金がかかる楽器。一般家庭ではとてもじゃないけど、子どもがフォニを弾けても弾かせてあげることは無理。
 養子縁組と言っても、普通養子なので実の両親と親子関係がなくなったわけではないし、年齢を重ねるごとに頻度は少なくなっているけど、実の両親と会っている。
「血は繋がっていないけど、間違いなく、あなたの音は母親の音を引き継いでるわ」
「ありがとうございます」
 私は母の音が好きだから、そう言われると本当に嬉しい。
「もう1曲、聞かせてくれる? 曲は何でも好きなのでいいから」
「わかりました」
 何でもいいと言われたので、私はあの曲を弾くことに決めた。
「あら……」
 弾き始めた瞬間、萩原先輩は少し驚いた表情を浮かべ、すぐにその表情は微笑へと変わった。
 私が今弾いているのは萩原先輩が去年のコンサートで弾いた曲。
 音にのせる思いが違うので感じは違うけど……微笑みながら聞いている様子を見てほっとした。
「えっ?……まさか……」
 萩原先輩が演奏の途中で突然そんな言葉を発したので、思わず弾くのを止めてしまった。
「ごめんなさい。演奏を止めてしまって……」
 萩原先輩はそう言う私をじっと見つめた。
「もしかして、自覚……ないの?」
「何のことですか?」
 萩原先輩の言葉の意味がわからなかったので、そう返すことしかできなかった。
 何もわかっていない様子の私を暫く見て、一つ頷くと、椅子から立ち上がり部屋の中にあるフォニを持ってきた。
「あの……」
「もう一度、最初から弾いてみて」
「は、はい」
「一、二、三、はい」
 萩原先輩の合図に弾き始め、それに合わせるように萩原先輩も弾き始めた。
「……萩原先輩!?」
「演奏に集中して」
「は、はい」
 ……今、萩原先輩とアンサンブルしている……
 去年のコンサートの演奏を聞いてから、萩原先輩とアンサンブルをするのが夢だった。
 その夢が叶うなんて……
 私の奏でる音に萩原先輩の奏でる音が重なって、一つになっていく。
 気持ちいい。
 フォニで最高の演奏ができたとき、よくそう表現される。
 母とアンサンブルをしたとき、そう感じたことはあったけど、他の人とはなかった。
 気持ちいい……この快楽にずっと浸っていたいと思うほどに……

 あれ?
 錯覚かな……音だけではなく、身も心も萩原先輩と一つになっていくような感じがする。


 だ……ダメ……き、気持ちよすぎて……か、体が……火照って……きた……

 
 私の中に萩原先輩が入ってくる……


 か、体に力が入らなく……なって……きた……


 こ、これ以上は……ダ、ダメ……く……くる……い、いっちゃ……


 もうダメ、と思った瞬間、演奏が終わった。
 た、助かった……
 
「私とのアンサンブル、どうだった?」

 荒れた息を整えようとしている私に萩原先輩はそう尋ねてきた。

「き、気持ちよかった……です」
 そう返すことしかできなかった。
「気持ちよかった……ね……」
 私の言葉を聞いて微笑むと、椅子から立ち上がり私の背後に立った。
「……は、萩原先輩?」
「気持ちいい……よく言われる言葉よね……でも、あなたの言う気持ちいいは種類が違うわよね?」
「な、何のことでしょう?」
 萩原先輩が私の体を抱き締める。
「あなたの言う気持ちいいは性的な気持ちよさ、でしょ?」
「えっと……あの……」
 私を抱き締めていた萩原先輩の手が私のスカートの中に伸びる。
「ほら、こんなに濡れてる……」
「……は、萩原先輩……」
 萩原先輩が私のショーツ上から優しく撫でる。
「ほら、又、濡れてきたわよ」
「……」


 もう、何も言う事ができなかった。


 ……ダ……ダメ……


「……冗談はこれぐらいにしておくわね」
 萩原先輩がそういうと私のスカートの中から手をどかした。
 すると、さっきまでの感じが嘘のように霧散した。
「え?」
 さっきまでのは何だったのだろう……
「ごめんなさいね。ちょっとからかい過ぎたわ」
 萩原先輩が申し訳なさそうにそう言った。
「あの……さっきのは?」
「やっぱり、自覚なかったのね。説明するわ」
 萩原先輩はそう言うと椅子に座った。


「フォニを演奏するのにある種の才能が必要なのは知っているわよね」
「はい」
「それがどんな才能なのかは知っているかしら?」
 私は首を横に振った。
「音と一つになれる才能。魔力と言われることもあるけど」
「魔力……ですか?」
 その話は幼い頃に聞いたことはあった。
 でも、それは嘘というか冗談だと思っていた。
「フォニが先文明の遺産ということは知っているわよね」
「はい」
「先文明は魔法が栄えていた時代みたいでね。フォニは魔力を使って弾く楽器と言われているわ」
 先文明が魔法が栄えていた時代という学者は少なくないけど、その証明はできていないと記憶している。
「先文明が滅びて久しいけど、今でも魔力を持って生まれてくる人はいるみたいでね。魔力を一定以上持っている人がフォニを弾けるみたいなの」
 そう言うと萩原先輩は椅子から立つと部屋に備え付けてある棚から何かを取り出した。
「これは……」
 古いタイプのフォニだった。
「今では音と一つになれる程の魔力と技術がなくても弾けるけど、そのフォニはそれらがないと弾けないの」
 そう言うと萩原先輩は音を一つ鳴らした。
「自分が音と一つになるだけでなく、演奏を聞かせることで他人も音と一つにさせることもできてね。これが危険なの」
「……危険ですか?」
「ええ。他人の心を思いのままに操る事ができてしまうの」
 心を思いのままに……もしかして……
「あなたのさっきの感じは私が導いたものよ」
「導いたですか?」
 てっきり萩原先輩がしたのだと思ったのに。
「ええ。訓練しないと今のあなたのように、ただ音と一つにすることしかできない。心を思うのままに操ることができると言ったけど、ただ他人を音と一つにするだけだと、快楽……性的快楽を自分で感じ、他人に与えることになるの」
 そう言うと萩原先輩は私に古いタイプのフォニを弾いてみるように言った。
 音が鳴った。
 今私が使っているフォニよりも澄んだ音。
「私もそうだったんだけど、このことは自覚があるの。性的な快楽だからね。周りと違うことに気が付くの。でも、あなたは自覚がなかった。あなたに性的快楽が起こることがなかった」
 萩原先輩の言葉に私は頷いた。
「だから、少し導いてみたの。勘違いかもしれなかったしね。どうやら、上手く蓋がされていたみたいね」
「蓋……ですか?」
「蓋は喩えだけどね。たぶん、あなたの母親があなたに音と一つになる程の魔力があることに気が付いて、性的快楽が起こらないように育てたみたいね」
 母さんが……
「でも、自覚しないと他人を音と一つにさせることはできないわ。演奏者と聴衆者の一体感はこのことによって引き出されるものなの。だから、蓋をしたみたいね。音と一つになる程の魔力がある人には取り外す事ができるような蓋をね」
 そう言うと萩原先輩は古いタイプのフォニを元の場所に片付けた。
「でも、ちょっと困ったことになったわね」
「何がですか?」
 萩原先輩は古いタイプのフォニを片付け椅子に座るとそう呟いた。
「訓練することで他人を音と一つにすることで快楽だけではなく様々なものを与えられるようになるの。でも、その訓練は音と一つになる程の魔力があって、既に訓練を受けている人しかできない。それに該当する人が2年生では私しかいないのよ」
 そう言うと萩原先輩は頭をかかえた。
「おそらく、高校で蓋を取り外す事ができる人に会わなかったら、あなたの母親自ら訓練するつもりだったのでしょうね。でも、蓋を取り外したらもう一度蓋をすることはできそうにないし」
「は、萩原先輩?」
 名前を呼んでも聞こえていないのか何も返してこない。
「蓋がなかったら、訓練しないと大変なことになるわよね。魔力が強いみたいだからどんな影響が出るかわからないわ」
「あの、萩原先輩は誰からその訓練を受けたのですか」
「……えっ、去年の私のパートナーよ」
 今度は私の声が聞こえたのかそう返してきた。
「その人にお願いするわけにはいかないのですか?」
 萩原先輩のパートナーは今3年生だから無理なのかな。
「……私の去年のパートナーは男性よ」
「あっ……」
 そうだった。
 でも、萩原先輩は去年のパートナーに訓練を受けたと言っていた。
「あの、もしかして……」
「ええ、かなり恥ずかしかったわよ」
 私が全部を言う前に萩原先輩はそう返した。
「萩原先輩のパートナーもよく耐えられましたよね」
 訓練しないと性的快楽を与えることになる。
 ということは訓練の途中も同じはず。
 性的快楽を自分で感じ、他人に与えると言っていた。私が感じていた快楽よりも弱いかもしれないけど、萩原先輩も快楽を感じていたはず。
 さっき女性同士でも恥ずかしかった。これが相手が男性だと……
「ええ、彼には本当に迷惑をかけたわ」
 そういうと私と萩原先輩は同時にため息を吐いた。
「決めたわ。あなたも私のパートナーになりなさい」
「えっ!?」
「あら、嫌かしら?」
「嫌ではないですけど」
 私自身、萩原先輩に憧れてこの学校に入ったのだからその申し出は嬉しい。
 でも、先輩はもうパートナーが決まっている。
 私のクラスメートの有栖川さん。通称アリス。
「コンテストは2人組と決まっているわけではないわ。3人組のところもあるし」
「有栖川さんは大丈夫なのですか?」
「そうね。あの子の実力では厳しいかもしれないけど、何とかなるでしょ」
 有栖川さんはお世辞にもあまり上手くはない。
 でも、素質はあると私は思っている。そして萩原先輩のパートナーにぴったりだと思っている。
 萩原先輩のパートナーに決まったとき、どうして彼女がと思う人が多かったみたいだけど。
「わかりました。お願いします」
 私は萩原先輩の申し出を受け入れることにした。


「手続きは私がするから今日は帰りなさい」
 そう言うと萩原先輩は練習室を出ようとして、何かを思い出したかのように鞄の中から何かを取り出し、私に投げ渡した。
 私が受け取ったもの、それは100円均一ショップで売られているような面の下着だった。
「濡れたまま帰るのは気持ち悪いでしょ。明日からは替えの下着用意してね」
 このまま帰るのは気持ち悪かったので凄く有り難かった。
「明日、有栖川さんが私も萩原先輩と一緒に組むことになったことを知るとどんな反応をするのでしょうね」
「ふふ……確かにそれは楽しみね」
 私の言葉にそう返すと萩原先輩は部屋を出て行った。
 
 明日からが楽しみだ、私はそう思いながら下着を履き替えてから家路へと着いた。